pierrot

ピエロがね、雫型のシールをペタペタ右目の下に貼りながらいうんだ。「私の歌っているのを聴いていてほしい人は、ひとりだけ。」ああ、おそらくだよ、おそらく、このピエロはあらゆる化粧を落とすだろう。舞台に立つことはもうそんなにないだろう。ピエロは、そのまま、そばでその声を聴いてくれる、ひとりのひとを癒すために歌を歌うだろう。そのための音楽だったんだ。ピエロの両肩が両肩以上でも以下でもない重さになって、一番あたたかくなるのは、そういうとき。ピエロはね、知ってる、そのひとを癒すことが、舞台でみんなを癒すことより大切だと。というのも、ピエロの身体はそういうふうにできているんだね。だから、自然なことだよ。

 

道化師としての観点から

喜劇的、道化師としての観点、または詩的観点、つまり防犯的観点により、ここ2週間の当ブログを「Dear, Antoine de Saint-Exupéry」としてひとつにまとめさせていただきました。まとめたことによって、その内容の真が損なわれることは決してありません。以上のこと、ご理解いただけるものと確信しております。2017年を生きる現代の道化師の珍しい滑稽なダンスの記録であり、過去、同様の観点により削除された「まな板」も加筆修正して収録いたしました。ではでは~。(道化師:舞台左から消え、次の「現実」と呼ばれる、この物理世界、まったきリアルと呼ばれ得る世界でのダンスに備える。実は、道化師は現実のほうが好きだ。現実の方が、想像より何千倍も、いや比べものにならないほど素敵だと知ってる。)

Dear, Antoine de Saint-Exupéry

Aug 6, 2017

 

「Dear, Antoine de Saint-Exupéry」

 

小さな王子をあなたが見送ってから、1週間ほど経ちましたか。私は、小さな王子の1本の花について、さらに詳しくわかってきたのでご報告します。まず、これは、一番大切な情報です。その花が、羊に食べられるようなことは決してないのです。なぜなら、羊には花が見えないからです。花は王子にしか見えないようですよ。ですから、王子は確実に花と再会しています。どうぞ、安心してください。花もそれに気づくべきでしょうね。私は、トゲだらけのその花に言ってあげますよ。そのトゲ、必要ないですよって。見えないあなたを羊やその他が食らいやしないと。そして、あなたを見る王子にとって、そのトゲはあんまりにも気の毒だと。

 

それから、花が歌っていた歌を聴き覚えました。その歌は、本当に素敵な曲でした。私もその曲が好きになりました。その歌を聴いて、花のトゲは、実はそれも花自身がつくっている幻なんだと思いました。本当はトゲなんて、つけるところもないみたいですよ。

 

つまり、羊も口に輪をはめる必要がないってことです。羊もほっとしてるでしょう。

Aug 9, 2017

 

「まな板」

 

まな板の上にのっています。のりごこちは、なんともいえない。何もかもはじめてのことで。なんなんだこれは。知らなかった。こんなんだったなんて。苦しいし、寂しいし、もう、こりゃ脳みそが役に立たないな。一体この宇宙ってのはどうなってるんだ!!聞いてないぞ、こんなんだって!(笑)

 

あの兄さんに伝えてください。まな板の上になんかのっかって、叫んでますぜって。

Aug 11, 2017

 

「森に入れば」

 

あの木の下、見て。ほら、ことばのきのこ。細い黒い針金みたいな先に、やっぱり細い黒い針金まるめたみたいな胞子のかたまりついてるよ。それが次々集まって束になって、小さな黒いブーケになって。ブーケはあえかな絹糸で結ばれてる。ことばのきのこのちいさなブーケ、そのままふんわり宙を舞う。わたしのところにもやってきて、手の中に、手の中に。両手のひらにブーケがひとつ。わたしはブーケにきいてみる。

 

綺麗ですね、重さがないですね/もちろん、重力は働かないので/ああ、グラヴィティフリーですね。じゃ、これは、音波ですか/音波です

 

ことばのきのこの小さなブーケ、ブーケの絹糸がほどけると、手の中に胞子がいっぱい。細い黒い針金まるめたみたいな胞子。かわいらしい胞子。わたしはその胞子をそのまま森のなかに放ったよ。胞子の針金は、ひとつひとつ宙でほどけて、いろんなかたちになって飛んでいく。そのうちのいくつかは、くにゃくにゃしながら、シャボン玉になって、パシャっと割れて、割れた飛沫はそれぞれ小さなヘビイチゴになったり、ムラサキサギゴケの光る花になったりして。ああ、ここは春なんだな。どんぐりの花のかおりもするよ。そこで、わたしはやっと気づいた。この森はことばでできてる。ことばでできた森だったんだ。わたしはいつもこのなかで遊んでいた。知らなかった。知らなかった。知ってしまった。知ってしまった。わくわくするな。この感じ。

 

じゃあ、じゃあ、おそらく、そうなんだ。わたしの身体もことばでできてる。手も足も肩も背も、ことばでできてる。知らなかった。知ってしまった。えらいことに気づいてしまった。ことばを運んで動き回り、ことばで食べ、ことばをつかって踊り、ことばで音楽を奏でていたんだ。ああ、こりゃ、えらいことに気づいてしまった。

 

じゃあ、じゃあ、おそるおそる言ってみよう。この宇宙はことばでできてるってことかな。そっか、観測不可能なものが、山のようにあるのはそのせいなんだ。なるほどね。ビッグバンの中身は、愛のかたまりだったのかもしれない。

 

Aug 13, 2017

 

「Dear, Antoine de Saint-Exupéry」

 

追伸です。あの例の花が歌っていた歌は以下のようでした。わたしはこっそり聴いてしまいました。王子が地球を旅していた間、王子の星で一本の花が歌っていた歌。

 

 

私の大切な人。年老いて、あなたが歩けなくなって、食事も自分でできなくなっても、安心して。ちゃんと、あなたが一番こうしてほしいと思うように、外へ連れ出し、窓辺に連れて行き、また、外の植物を取って持ってきますよ。また、食べたいものを、食べられるようにして持ってきますよ。安心して。あなたが嫌がる薬を飲ませたりはしません。大丈夫です。心静かに過ごせるように工夫しますよ。あなたの好きな音楽をかけますよ。もし、私が先に逝ってしまっても、必要でしたら私の名前を呼べばいつでもそばにいますよ。安心して。でもその必要はないでしょう。わたしは恐ろしく長生きしますので。

 

もし、上のようなことの見返りに、君は何が欲しいんだろうとあなたが思いを巡らせるなら、安心してください。私の要求は小さなものです。つまり、これから、あなたがずっと思い続けるひとが、他の誰でもない私であること。それだけ。それだけです。これは、That's allの歌詞そのままです。私はこの曲が大好きです。これより素敵な曲他に知らない。わたしがどこかでこれ歌ってるとしたら、確実にあなた宛てです。

 

大切なあなた。一生にたったひとりのひと。ことばと身体は同じものです。あなたがわたしを愛しているのを私は知ってる。だから、私はあなたを信じると決めました。安心してください。例え、あらゆる文字と記号が消えたとしても、他の人が何といっても、他の知識や叡智と呼ばれているものまでもが何か言っても、私は、あなたの私を愛することばと身体の方を信じることにしました。だから、私は安心して今日を生きます。そうやって安心することで、もっといい仕事ができる気がする。つまり、それが、また静かな波長、躍動を知る波長を生み出したら素敵だと思うのです。互いを疑わず信じると決めることがすべてなのではと、あなたの旅の留守中にそんなことを思ったのでした。

 

 

Aug 14, 2017

 

「広い広い海のこと」

 

あのひとの広い広い海のこと。あのひとの広い広い海のこと。あのひとの寂しさを分かりますか。分かるわけないでしょう。こんなにひとりの道歩けますか。普通の人ならもう脚が壊れる。あの人の海、私は感じる。あのひとの空っぽが大量の水を吸い込み、その海が出来た。あのひとの海。

 

あのひとのことば。私を責めないことば。責めていいのに、君はつまらないから来ないでくれと、言われても私は納得する。

 

あのひとの広い広い海。そのなかのどこにいるのか、よく見えない。目の前かもしれない、いや、ずっとずっと奥底で小さな明かりをつけてなにかしているのかもしれない。わからない。

 

こんなにひとりの道歩けますか。どこを探しても誰もいない。そんな道を歩いたことありますか。狂いなく、そんな道を歩いたひと、知っていますか。自分のことすごいって言わないひと。あのひと実は普通の人、私知ってる。あのひと、とにかく男の人、私知ってる。男の人のなかでも、一番まっすぐで、一番男の人。

 

次に会ったら、なんて言いますか。私は何も言わないです。あの人の前では、私はなぜだか無性に眠くなる。ただ、甘いものやおいしいものが食べたくなって、それで、脳みそが働かない。だから、これは、あのひとにも内緒。あのひとの海のこと、その潮汐のこと、あの人も知らないこと。あのひとの海のこと、私がその中に飛び込んでこれから泳ぐこと。あのひとは、Gifted。贈り物を送られた人。生まれた時から、贈り物を送られた人。それで、この宇宙に、未聞な、強い脚をもつ、けどふつうのひと。

 

そう、わたしにも、どうもあるらしい。私は海ではなくて、野の花の咲く多少の曲がり角はあっても一本道だった。12のころに、そこを歩く私を見つけた。生と死のはざま。死と、ことばと、この宇宙のこと。誰かが私と同じ道を歩くと言ったなら、私は言います。やめたほうがいい。孤独に輪をかけられて孤独が広がる。だれにも言えない、言っても分からないこと。子どものころ、必死に自分の右手で下から自分の左手の手首を握って、歩く。また、逆に自分の左手で下から自分の右手の手首を握って歩く。狂わず歩く方法。それは、学ぶこと。学び続けること。観察すること。観察し続けること。

 

私が寂しいと言える人は、私より大きな寂しいをまっすぐ生きてる人。けれど、必ず救われる。必ず、その海を埋める土、つまり島があって、緑を植えて、いきものを育み、わたしはそこで遊びます。その海、あのひとの広い広い海。私の海。もちろん、こんなことが、ご迷惑でないならばです。ご迷惑ならば、うえのようなこと、それはしません。

Aug 14, 2017

 

「I love you!!」

 

My love, my valentine. Just wait a little! Just a little. Just a little. I prepare to be a wife for you. So just wait for a little. I love you!!!! You're so smart and handsome! You are the best in this world, the universe. I love you. My love.

Actually I would like to sing for you now and upload the video on YouTube. But…It's not good because, as you know, YouTube is for everyone in this world and the person I want to send my song for is only you. So I cannot upload the video for you. It's secret thing for us. I know you'll understand. I love you. I'm so happy that you look fine recently. Everything is going all right. I believe you. Good night!!   with love.

Aug 17, 2017

 

「My dear」

 

元気にしてますか?私、はやくあなたに会いたい。今は、ちょっと我慢して、日常の業務をきっちり遂行すべく頑張っています。9月の10日までには、会いに行きます。行きますよ。楽しみ!

 

リズムの線形

 

紙の上を走る鉛筆が出す音、それを聴いてる。

即興演奏ワークショップ

音を奏でることをもっと身近に、日常的に、どなたでもしていただきたいという思いが私にはあります。去年から、即興演奏のワークショップのご依頼があり、不定期ではありますが、続けさせていただいております。楽器に触れる初心者のお子様向け講座の後、そのご指導に当たられている先生方を対象にした講座をもっております。ピアノを教えておられるお教室からのご依頼です。生徒さんの数が50人程度の、充実した音楽環境にいつも素晴らしいなと感じるお教室です。なにより、先生方のお気持ちが寛容で柔軟なのです。どうしても、楽譜通りに弾く訓練のようになりがちな、ピアノのレッスンですが、このお教室はアメリカ発のペースメソッドという、即興を取り入れた練習法を実践されている、珍しいお教室です。私の考え方に、共感してくださり、私もこころをこめて、毎回のテーマを練っております。

 

ワークショップは、一緒に体感しましょうという、私自身も勉強させていただくものとして臨んでいます。私の一言を子どものみなさんなりに、一生懸命考えて、感じて、演奏に臨んでくれます。わたしは、音楽より実は、もっと大切なものがあると、いつも、話すたびに思っているのです。例えば、学校で、嫌な雰囲気を味わったり、おうちで居場所がなかったり、うまく自分の気持ちを言えなかった経験、そんなことだらけの子ども時代でしょう。いじめという人間関係の高気圧、低気圧を見ることもあるでしょう。そんな時、「なんかおかしいな。変やなって思う。」って言葉にできることが一番大切だと思うんです。何が変なのかを言う必要はなくて、「なんか、はっきりわからんけど、違和感ある」と言える人がたくさんいたら、天気図は変わる。つまらんことすな、っていう気持ちにさせてくれるものが、音楽ですよ。この世は生きるに値する世界だと、子どもたちにこそ体感してほしいです。させられる音楽じゃない、あなたがつくる音楽であってほしいです。たくさん弾かなくていい。1音でもいい、その音が消えるまでじっと耳を澄ますと、あなたの心も澄んでいく。そんな感じ、素敵な感じ。それが即興演奏、即興作曲なんです。私自身も毎日それを修行してるひよこです。

 

今までの主な内容:音をことばにするリズム、ベースを聴く、音の積み方でフレーバーが変わる、etc.

森に入れば

Aug 11, 2017

あの木の下、見て。ほら、ことばのきのこ。細い黒い針金みたいな先に、やっぱり細い黒い針金まるめたみたいな胞子のかたまりついてるよ。それが次々集まって束になって、小さな黒いブーケになって。ブーケはあえかな絹糸で結ばれてる。ことばのきのこのちいさなブーケ、そのままふんわり宙を舞う。わたしのところにもやってきて、手の中に、手の中に。両手のひらにブーケがひとつ。わたしはブーケにきいてみる。

 

綺麗ですね、重さがないですね/もちろん、重力は働かないので/ああ、グラヴィティフリーですね。じゃ、これは、音波ですか/音波です

 

ことばのきのこの小さなブーケ、ブーケの絹糸がほどけると、手の中に胞子がいっぱい。細い黒い針金まるめたみたいな胞子。かわいらしい胞子。わたしはその胞子をそのまま森のなかに放ったよ。胞子の針金は、ひとつひとつ宙でほどけて、いろんなかたちになって飛んでいく。そのうちのいくつかは、くにゃくにゃしながら、シャボン玉になって、パシャっと割れて、割れた飛沫はそれぞれ小さなヘビイチゴになったり、ムラサキサギゴケの光る花になったりして。ああ、ここは春なんだな。どんぐりの花のかおりもするよ。そこで、わたしはやっと気づいた。この森はことばでできてる。ことばでできた森だったんだ。わたしはいつもこのなかで遊んでいた。知らなかった。知らなかった。知ってしまった。知ってしまった。わくわくするな。この感じ。

 

じゃあ、じゃあ、おそらく、そうなんだ。わたしの身体もことばでできてる。手も足も肩も背も、ことばでできてる。知らなかった。知ってしまった。えらいことに気づいてしまった。ことばを運んで動き回り、ことばで食べ、ことばをつかって踊り、ことばで音楽を奏でていたんだ。ああ、こりゃ、えらいことに気づいてしまった。

 

じゃあ、じゃあ、おそるおそる言ってみよう。この宇宙はことばでできてるってことかな。そっか、観測不可能なものが、山のようにあるのはそのせいなんだ。なるほどね。ビッグバンの中身は、愛のかたまりだったのかもしれない。

 

畑の作業

今日の作業。かぼちゃ(バターナッツ)ときゅうりの草取り。夏の自然農法は草との戦い。大葉をたくさん取って帰った。かぼちゃ、大きくなってる。いっぱいなってる。スープにするとおいしい。サツマイモも元気。今はトマトと、ナスとしし唐と、オクラにまみれて生活していて、野菜天国だけど、もう、それも盛りを過ぎましたね。

 

畑猫ちゃんと遊ぶ。畑猫ちゃん、今日はしゃっくりを披露してくれた。お腹をヒクっと動かして、鼻をかむようなしぐさを何度か繰り返していた。かわいい。夕方でもまだまだ、暑い。私は作業の合間はテントの陰で仰向けに寝て空を見る。若いアキアカネがたくさん、雲みたいにふわふわ浮遊する。視界をハトが横切っていく。ツバメも一羽踊り入る。どなたも忙しそうですな。大葉は天ぷらにします。

173の即興

偶然と必然のはざま

即興演奏っていうのは、そんな感じです。偶然と必然のはざま。演っているとき、偶然をかたちにしている感覚がある。それは確実にある。つまり、扱っているものに対する無責任を是認した感じ。それから、必然、これは、終わった結果を見ると、いつも持つ感想。この音が出たのは必然だったと思う。振り返って、ついた自分の足跡を見て、足はそこに落ちるしかなかったと認めざるを得ないものがある。これは、この宇宙に流れる時間に乗った感想のひとつです。

The Wind Cries Mary

8月26日(土)のハルソラでのライブで演る曲の歌詞なんかをじっと見つめていたりする。また、新しい世界があったりする。Jimi Hendrixが歌う。Blues。私は彼の音が好きだったんじゃなくて、その持っているイメージと愛が音から溢れてて、それで好きだったんだと今頃になって分かった。詩人ってのは、まったく、なんて仕事をしてくれるんだ。それこそ、音と詩は、これが音、これが詩って分けられないものだとやっと体感した気がする。分類する必要はないんだ。きっと。ぼんやりと浮いてるものだよ。核の周りをまわる電子の煙みたいに動き続けて、浮いている。私が尊敬する詩人たちは、あまり自分のことを詩人だとは言いたがらない。音、言葉、かたち、食、いろいろ、本当にいろいろ。

"The Wind Cries Mary"

 

After all the jacks are in their boxes
And the clowns have all gone to bed
You can hear happiness staggering on down the street footprints dressed in red

And the wind whispers Mary

A broom is drearily sweeping up the broken pieces of yesterdays life
Somewhere a queen is weeping
Somewhere a king has no wife

And the wind, it cries Mary

The traffic lights, they turn, uh, blue tomorrow
And shine their emptiness down on my bed
The tiny island sags down the stream
Cause the life that lived is, is dead

And the wind screams Mary

Uh-will the wind ever remember the names it has blown in the past?
And with this crutch, its old age
And its wisdom it whispers, "No, this will be the last"

And the wind cries Mary

"The Wind Cries Mary"

 

びっくり箱のなかにジャックたちはきちっと収まって/ 道化師たちもみな床に就いたころ/ 君は聴くだろう/いわゆる「幸せ」というものがヨロヨロと通りを歩く音を/その足跡は赤いものをまとってる

 

そして、風がささやく、マリーと

 

壊されてしまった昨日の人生のかけら/ それを箒(ほうき)がのりきらない感じで掃いて見えなくする/ どこかで/ 女王が涙を流し/ 王は妻を見つけられない

 

 

そして、風が呼んでる、マリーと呼んでる

 

シグナルの光は、明日、青に変わる/ そして私の寝床に彼らの空っぽなこころを映し出すだろう/ 小さなその島は流れに削られ傾き…というのも、そこに住んでた住人が亡くなったのでね

 

そして、風が叫んでる、マリーと

 

嗚呼、風は記憶するのだろうか/過去に呼んだことのある名前たちを/ すると、そのとき/ 杖をつく/ 年老いたもの/ その叡智がささやいた/「いやぁ、これが最後になるさ」

 

そして、風は呼んだ、マリーと

(訳:池田不玖)

 


鎮魂歌ともとれるのかな。わからないけど。最後に救われる。杖をつく年老いたもの、その叡智のひとことに。「悲観することはない」と。叡智にしか言えない言葉とはそういうもののような気がするのです。1967年リリースの曲。当時アメリカはベトナム戦争のさなかだった。

 

この人の言葉には、何かを一生懸命考えた痕があって、さらに叡智というものを使って、たしかな希望や愛を歌っている気がするのです。考えざるを得ないものに、たじろがず取り組んで、叡智に賭けて生きた人に私は敬意を表したいです。

 

私は、2017年を生きてる。また、違うものを見てる。どんな音を出すんだろうな。

Blues

 

私の造形は、まだまだ、恣意的だとおっしゃった方がいた。恣意的…。それを、解きほぐす方法を、私は音楽しか知らない。見る人を包みこむかたちになっていないことは、私自身が一番よく感じていたことであり、それは、リズムを感じてつくっていないということなのかもしれない。リズムの本質をまだかたちにできていないということなんだろうと思う。

 

どこか、ピントの外れた、焦点の合わない、はっきり見えない感じ。私は、それが心地よかったりする。肩の力の抜けるもの。あるがままを受け入れられる状態。または、あるがままを発信するもの。それを描くには、どうしたものだろう…。即興かな。即興性をかたちにする。頭をつかわない、身体で描く。私が、即興演奏をするときを思ってみる。あれは、いったい何をしているんだろう。

 

数字のランダム、はっきり見えない感じのイメージ。どれも、それ自身が、目的じゃない。私たちのありようを、観察する機会を与えてくれるもの。静かなもの。喉を突いて出る、静かなもののなかの躍動。無償のもの。おそらく、「愛」とよばれるべきもの。

 

6度の即興

愛を語る人

愛を語る人がいた。みんなを集めて語っていた。そしたらネズミが現れて、その人の足を噛んだ。愛を語る人、飛び上がるほど痛かったけど、我慢した。みんなはそれに気づかなかった。演台があったから、かくれていたし。愛を語る人、頑張っていた。今度は、後ろの黒板が剥がれて倒れてきた。そんなことってめったにないことだ。愛を語る人を直撃した。もちろん後ろから。さすがに、今度はみんなも見てた。愛を語る人より先に気づいたけど…。それで、一旦、愛を語るのが中断された。みんなは続きを聴きたかったので、黒板の破壊を我先にと手伝った。果たして、黒板はこまかい木片にされて、きれいにまとめられた。もちろん愛を語る人も自分が図らずもぶち抜いた黒板の穴からすぐ救出された。幸いたいしてけがはなかった。こうして、みんな気を取り直して、愛を語る人の話をきこうとした。愛を語る人、くしゃみをした。黒板のチョークの粉をまともに吸い込んでいたから。そしたら、今度は、愛を語る人、くしゃみが止まらなくなって、愛を語れなくなった。でも、みんなは、そのくしゃみも愛を語っているモノだと思った。愛を語る人は苦しかった。くしゃみが止まらないのと、愛を語れないのと。けど、自分がくしゃみするのをみんなが真剣に見ているのに気付いた。それで、くしゃみをし続けた。みんな、じっと、今までの話より長い時間くしゃみを聴いていた。最後のくしゃみが終わった。愛を語る人はへろへろだった。みんなは、そのあとかき氷を食べに行った。

ぐでんぐでん

ぐでんぐでんの黒と、せっせと何かを運ぶ白。さっきからあの小屋で蒸留していたもの。白、おもむろに黒に近づく。黒の口をわる。液体を注ぐ。ぐでんぐでんの黒、宙を見て、青い煙を吐く。青い煙はまとまって、散らばることなく浮遊する。そのまま、鉄橋わたります。トンネルくぐって、遊園地。観覧車の窓あいてます。煙がなかに入ります。観覧車から見る景色。突然がちゃんとなりました。煙の乗る箱落ちました。そのまま頭をうちました。

空と土の間で

ひきこもり明けのうた

私の足で歩く。ひとに会う。なかなか、ひとに会いに行けなかった。どこにも出かけられなかった。長いこと、長いこと、縁の下で這っていて。暗い中にちょっとした小窓みたいなのがある。それを目指して這いつくばる。早くは動けない。カタツムリどころじゃない。すごくゆっくりだった。とほうもなく。数十年かけて、おそらく5mほど。それは、私の意志でそうなったのか、そうなるようになっていたのか、そうして学ぶことが私に必要だったのか、なにもかも定かではない。植物が芽を出す場所はいろいろで、そこから光を求めて移動していかなくてはいけなのは、世間の茶飯だし。何も特別なことではない。よくあることで。とにかく、私は、縁の下の小窓にたどり着いた。それで、やっと、光を見たけど、外は何もたいして素敵でもないよ。だからって、縁の下も素敵というわけでもないよ。身の置き場所が必要だっただけで、つまり、縁の下に私の身を置かしてもらっていた。ありがたいことです。外へ出ても、みなさん親切にしてくださる。ありがたいことです。時々、くじけそうになるだろ。そしたら、次の縁の下を探すだろう。縁の下の小窓を今度は外から探すだろう。奇怪なことだけど。植物がその身を潜らせる闇を探す。でも、前と違うのは、明るいということ。ここが、明かるいということ。今見ているものが、明るいということ。光合成ができる。それが幸せなことなのか、そうでもないのか、分からない。でも、とにかく、出た。

 

 ●

 

ひとはそれぞれ自分の世界を生きている。その世界はそのひとの一生とともに生まれて消えていくもの。おそらく、そのようなもの。実は誰とも分かりあえてなかったりするかもしれない。それに、実際分かりあう必要もないかもしれない。言葉や数字やその他、記号もかたちも色もみんな自分の好きなイメージでとらえて話している。どんな色がついているのか、誰ともシェアできない。その人の感覚はその人だけのものだから。私たちの身体は結構ごつい。分子が結構集まっている。だから、同じ時間に同じ場所を共有できない。同じ時間に同じものに同じ位置で触れることが決してない。生き物っていうのは、おそらくそういうもの。唯一無二の感覚の積み重ねを抱(いだ)いて動き回っている。感覚というのは孤独なもの。だから、そのひとがどんなに貴重な存在かわかるだろう。あの小さな子ども、道を歩いて今しゃがんで蝉の抜け殻をひろったあのひと。すべては時間の仕業だよ。決して再現できない時間が、絶え間なく吹く風のようにいきものに吹きこみつづける。それは、おそらく呼吸と同期してる。だから、気づかないけど。たぶん、それで、こういうことになっている。

 

 

そういうわけで、とにかく、自分の最期の断末魔は引き受けなきゃならない。これは誰も代わってくれない。シェアできない。自分で耐えなきゃいけない。最後の大仕事だ。だから、みんな一生懸命自分で考えて、生きている。そう易々と預けられないな。生きて動ける一回限りの人生の切符をみんな大事に生きている。身体も心もできるだけ痛くないように。

 

 

 

上の記述で、ひとつ、私自身、裏の取れていない部分があって。「数字」という記号の特徴について。数字は誰が見ても同じものを指している?いや、数字も揺れ動く感覚の一種のようなもの?あ゛-、ここがなあ。これ、証明できたらな。数字自体が時間によってランダムに変化していて、さほど信用できない記号であることを証明できたなら。おそらく、1が1で、7が7で、9が9として機能するのは人間の脳みその中だけで。実際モノに数字をくっつけたら、1が6で、3が8、9が5のあと、4が1みたいに。瞬間しゅんかん、散らされ続けてるんじゃないかな。数字たちは。でも、予測だけど、頭のなかの数字が身体に帰ってくる日は近いな。そうしたら、数字は遊びの道具になるよ。おもちゃになるよ。数字は、ただただ音楽になって、空気の振動とともに瞬間しゅんかん旅をする。

 

 

もし、数字がさほど信用できない記号であると、私たちの頭が理解をしたなら、都会の風景は少し違うものになるだろうな。柔らかく、優しくなるだろうな。誰も傷つけることなく、誰も責めることなく、ゆっくりと静かに静かに溶けるだろうな。そうだ、いつのまにか、戦場だって、柔らかく、優しく溶けているかもしれない。

 

1939-1945

 

「愛」と「家族を養うこと」の間に一風変わった歯車が挟み込まれたようです。それが回った頃があったらしい。男性も、女性も、どうしてよいやら。どうしたらよかったというのですか。おそろしいこと、つらいこと、もう、十分味わったのです。

 

この時を生きたひとから、直接話を聞いた世代として、これは、常に私の机に載っているテーマです。観察してもしつくせない。人間が見た、最もおそろしいもの。言えないこと、言えること。私は、歴史のことはよく知らない。難しいことは分からない。けれど、何だったんだろう。人間から何が出てきてそういうことになったんだろう。おおもとを観察したい。人間の頭の世界。身体の声をかき消す、ちょっと見慣れない歯車の軋(きし)み。

 

人間の意識っていうのは、不思議なもので、先鋭化させようと思ったら、いくらでも。これは、どんな些細なことででも、意識ってのは先鋭化できる。もう、みなさんもよくご存じだろうけど、これは「恐怖心」とリンクしています。それで、私のようなものは、それをまるくしたいわけです。先鋭化した意識を散らしたいのです。散らされて、均(なら)された意識ほどしっかりものを観察できます。判断が鈍らない。脳みそを使う人間として判断が鈍るのが一番怖い。先鋭化したものは記号とリンクしやすい。散らされて均されたものは、記号にしにくい。手を握った感じですよ。あたたかくて柔らかくて、汗もかいているかも、それが一つになって「手」ですよね。相手の「手」の状態もある、自分の「手」の状態もあって、互いに握った感じはもう、記号であらわせない。そのままのもの。”そのまま”が、一番確かな情報をくれる。

 

”そのまま”は時間とともに常に変化する。だから、常に観察し続ける必要がある。結論を出して、それを技術に変換して、その「もの」を管理しようとしている間も、もう、”そのまま”は動き続けて、先を行っている。「手」というモノが相手なら、まだ妥当な技術が機能するかもしれない。けれど、対象がいきものだったら、人間だったら、そのひとの考えや思いだったら。そういうものは、次元からして変化していくもので、一瞬前は、もう2億光年むこうと同じくらい以前だったりする。人間を相手にするということは、つまり、それなりの覚悟がいるのかもしれません。

 

今後の考察課題/ キーワード:時間、不可逆、再現不能、Random、記号の真価、「愛」、「家族を養う」という歯車(随時追加)

 

詩をつくる

 

これはね、まっとうな記号の使い手になるってことだよ。魔法使いになるってことだよ。本当の音楽を奏でるといいよ。本当に、出したい音を出せばいいよ。身体の声をよく聴くといいよ。風の音を真似るといいよ。何もかも、とにかく静かなものだよ。誰の中にもあるもので、特別なものじゃない。誰にでも、今すぐできることだよ。もし、音や詩やその他いろんなものを、特別なもの、特別な技みたいに高い処からやるヤツがいたら、面倒くさいだろ。うっとおしいだろ。そんなんじゃないよ。そんなんなわけないだろ。そんなものだったら、なくていいよ。

 

とにかく、君は歓迎されてる。無条件にね。ごちゃごちゃ、考えなくていいよ。かっこ悪くてもいいかと言われると、それはね、だめだ。かっこだけは譲るなよ。

 

本当にいいものってのはね、「君は何もかも持ってる、何にも心配いらない、もし、必要だったらなんでも持って行くといい」って言ってくれるようなものだよ。脱力というのはそういうもので、それはつまりリズムだよ。この上なくあたたかいものだよ。要求することも、要求されることもない。それで、種明かしをすれば、かっこなんかつけなくてもかっこよくなってしまうんだよ。脱力ってのはたいしたもんだ。ダンスするってのはそういうこと。

 

そんなちっちゃいもの一生懸命握ってなくていいよ。大変だろ。放して、全部下に落としても、大事なもの、必要なものは、君の身体の中にちゃんと入ってる。ひとはそれを聴いてる。君のリズムを聴きたいと思ってる。

 

 

  

これを信じるか信じないかは君の自由だけど。実は、この世界をつくっているのは君自身なんだよ。君が最後の呼吸を終えたなら、この世界は消えてなくなるんだから。いい記号の使い手になりなよ。

 

それには記号の真価を知っていないといけない。記号ってのは、数字や文字のことだよ。そういうものは、どれも、ひとつでは何の役にも立たない。ひとつでは何も機能しないんだ。ひとつの言葉を一生懸命握っていても、この宇宙に流れる時間には乗れない。記号はね、並べ続けて価値がある。それも、それぞれさほど関係のないものを並べ続けてやっと、価値が出る。不思議なものなんだ。それは、時間というものが現れた結果だよ。君の身体は、その脈絡の無さが大好きなんだ。それは、そうすることでいろんなものがよく見えるようになるからだ。身体はいろんなものを、いろんな風に観察していたいんだ。それに気づけたのなら、もう、自由に記号を使える。誰かを管理しようとしたって、もう無理だよ。君自身を管理しようとしたって、それも、もう、無理だよ。君は誰も管理できない。そして、誰からも管理されない。数字も言葉も、あらゆる記号がやっと、身体に戻ってきたんだ。頭は身体の僕(しもべ)だよ。それを理解したものだけが、この世界をつくる記号の使い手となるんだよ。それには、深い「愛」がいる。信じることだよ。生きてるってのは素晴らしいことだと。いいきかせるといいよ。そして、ひとたび踊り出したら、君はそれを確信するだろう。瞳が瞳として輝くだろう。過去とか未来とか、そんなものもなくて、時間が点になる。君が何者なのかももう重要じゃない。

 

 

 

この宇宙に生きてみようと決めた人間が、今までこの地球上で数えきれないほどの呼吸をしてきた。彼らは自然や宇宙や社会の狂気の中を全速で走るなかで、自分が落としたものを拾おうとかがんで足元を見たよ。そして、そのまま、走るのをやめて、じっとしゃがんで足元を見てた。記号との戦いは、こうして、終わるんだ。記号の使い手は現れ続けて、戦いは終わり続ける。君は記号の使い手になるんだろ。じゃあ、記号は君の友人で遊び相手だね。

 

 

君は自分の食べるものを自分で育てて、自分で料理して食べる。そう、食べ物が君を歩かせている。食べ物が君にいろんな想像力を与えている。記号を扱う力も、何もかも、食べ物が支えてくれている。お金じゃないんだ。数字じゃない。言葉じゃない。君のリズムは食べ物がつくってる。食べ物が君と土と空をしっかりとつないでいるんだよ。

 

詩をつくるっていうのはそういう仕事なんだ。

 

 

二番茶を摘む

今日は奈良市田原地区の友人のお茶農家さんで、2番茶を摘むイベントのお手伝い。暑うござんすよ。けど、田原のまだ比較的涼しい高地の風に吹かれて、茶葉の天ぷらをつくって、塩ふって食べりゃ、もう、最高っすよ。夕方にはヒグラシが鳴き始めて。そうなると、私は、自分の本業が気になって、早く帰ってやりたいことがあって、そして、今着いたのでした。野菜をたくさんいただいて、今日自分でもんだ緑茶と紅茶も持って。みなさま、ありがとうございました。へろへろでやんすが、やりたいことがあるんで

百年の家: J.Patrick Lewis

ページを繰りながら、思わず声に出して読んでしまいました。これに、どんな音をつけますか。私は弦で。かき鳴らしたり、指でこすったり、弾いたり…。ゆっくり、声に出して読みたいです。こんな風に静かにものを見つめてる人がいる(家がいる)。長田弘さんの訳が素晴らしいのでしょう。原語でも見てみたい。Roberto Innocenti ロベルト・インノチェンティ氏の絵も静かに動いていました。とにかく、言葉が素晴らしかった。書いてある言葉の数はそんなに多くなく、広い行間があって。静かで…。持って帰りたかった。

otonikki

昨日、私は、大阪へ出て、梅田駅周辺を歩き回りました。田舎で育って、今もさほどキラキラもしてないところに住んでいるのですが、そして、ここ5,6年大阪の中心部のような都会を歩いていなかった者が、困惑した感覚…そんなもの、みなさんご興味ないだろうけど…。正直な、身体からの感想を書きますが、特異な印象でした。都会には、「あきらめ」というものがない気がしました。電車もバスも、車もいっぱい走ってる。人でいっぱいで、みんな豊かないろんな知識や情報を持っていて、すごく刺激もあって、いいこともあるけど…。効率のよさ、利便性、人を惹きつけようとすることがかたちになったら、こういう感じになるのかな…。空が狭くなって、土があまりなくて、それでも、限られた土にちゃんと緑が生きていて、綿毛も飛んでる。ギャラリーに行くと祈るような音が流れてる。

 

都会に生きている人もいます。決して、私のような田舎の人間が電車で出てきて歩き回っているだけじゃない。海外から来られる観光客の方々だけじゃない。そこに、住んで生きている人がいます。そういう人は、きっと、もう癒しとかを単に求める気持ちを超えて、言葉では言えないけど、何かしらを感じておられるのではとちらっと思いました。それも無意識のうちに、感じておらるのではと。田舎にも”よくわからない”開発があったりする、けれど、都会は”よくわかる”開発ではあっても、やはり”開発”に晒され続けているんだなと感じました。すべてがそうだとは言わないですが、今のお金の流れ方がかたちになったと言える場所もたぶん私は歩きながら見ていただろうな。

 

都会のなかで鳴らしたい音と、田舎の空に鳴らしたい音は、正直、質的に違うものです。もう、それがはっきり昨日、分かりました。田舎で出す音は、感謝の音でしかない。土や空や緑に。私はそういうものを見ていると本当に安らぎます。そして、日々の糧を頂く場所でもあります。土があれば生きていける。どうにでも。けれど、都会は、ちょっと様子が違うな。即興というのは、その場所のぽかんと空いたところをみつけて音で踊ったり歌ったりするものなので、そうなると、都会で音を出す時は、もう、「祈り」は欠かせないと感じました。ぽかんと空いたところが、人の心の中でみつかる。都会を歩く私の心の中がぽかんと空いていた。そして、私と同じような方に都会でよく会う。さっきも書きましたが特異なものを感じます。まあでもあくまでも、これは、個人の感覚です。この感じ、うまく言葉で説明できないなあ。誰が悪いとかそういうことではないのです。こうするべきだとか、そんなことを言いたいのでも決してないです。ただ、思想の中にも「デザイン」みたいなのがある気がする。場所を観察している。何が、その風景をつくっているのか、何がかたちとなって表れているのか。それについて、身体で感じるものが昨日ありました。都会で音を出す時は…、もっと正直にいうと、都会で私が呼吸しようとするなら、「祈り」がなくてはいられない。土や空への感謝まで行けない。自分をちゃんと歩かせるだけで精一杯で、それで満タン。グレゴリオ聖歌ではないけど、5度離れた音を同時に出して、それを平行に動かしたりして延々と歌っていたいです。都会のまんなかは。

ありがとうございました

ミジンコブンコさんでの、即興演奏ライブ「精霊の舞」が無事終わりました。お越しいただいた皆様、本当にありがとうございました。また、ミジンコブンコさん、このような機会を与えて下さり、ありがとうございました。心より感謝申し上げます。

 

幸せな時間でした。とにかく、心地よく、その場を満喫していました。お客さんのおひと方から「後ろで白いアジサイのドライフラワーが揺れていたのがすごくよかった」と言って下さって、その場に守られて舞台が出来たと分かって、幸せでした。

 

今日は、あらゆる意味で実験でした。まず、15kg近いE.pianoを電車で運んで行けるのかということ。私の手の内に納まるものなのか見極めたかった。それから、時間の管理を舞台でできるのかということ。あと、音楽的に表現したいものについて。現地点で余すことなく出せるか。舞台の把握。

 

精霊の舞は、空と土の精霊(ちいさな神様みたいなもの)がテーマでした。ヨルチャさんで、数週間前、経験したこともあり、随分、場を見渡しながら、音を楽しむことが出来ました。時間もほぼ予定通りに進めることができて、感触がつかめてきました。それと、一舞台で消費するエネルギーは結構あって、50分が精いっぱいです。ただ、E.pianoの運搬は難が多すぎた…。できないことはないけど、もうやりたくない感がある。これが、課題ですね。で、弾くと、やっぱり、いい。E.pianoはやっぱりいい。きもちがいい。ピアノに劣ると言われるけど、実際ピアノに劣るけど、私のような者にはちょうどいいです。外での使い方はこれからまた考えていきたいと思っています。

 

 

音のオブジェをつくりたい

音のオブジェをつくりたい。

今は具体的な旋律の付いたグルーブ。それを、抽象的なリズムとして、うねる4次元オブジェとしてものにできるか、作業を続けたいです。リズム標本じゃないけど、音楽のグルーブ(手を揉んで打つ感じ)の肉をそぎ落として、骨格だけとりだして提示してみたい。これは、私の個人的な興味です。外に出すことはないかもしれませんが。

 

リズム(躍動、うねり)が静かだということをどう伝えていけるだろう。逆に、静かななかにリズム(躍動、うねり)があることをどうしたら伝えられるだろう。ベースと旋律だけでどこまで「愛」を伝えられるだろう。究極的には旋律だけで。声だけで。人前で弾く弾かないは別にして、私はこれを追い続けると思う。

民謡はお師匠さんです。どこの地域の、どこの国の民謡も愛おしい。素晴らしいから。私は涙腺も緩いから、いつも泣かないように聴くのに必死になっていたりする。ただ、私は民謡の歌い手になりたいのではなくて、下から、下の下から、身体を使って観察していたい。その観察結果の研究論文として、音を出していけたら。まだまだ、まだまだ修行やな。

otonikki

私には、忘れられない曲。若いころの記憶。カルロス・サウラ監督の映画「フラメンコ」の最期にこの曲がなって、最後だけ録画できて、何度も再生して覚えた曲だった。こういうのは、私は詳しいわけではなく、勝手に楽しんでいるものです。

ただ、身体から出る音、音楽、リズムに興味があり、時々こうやっていろんなグルーブを体感してみたくなるのでした。グルーブを生み出すとき、鍵盤をもむように弾く感覚があり、それは、おそらく、あらゆる民謡に通じるものかと思っています。日本の民謡の手拍子も手をもむように打つと聞いたことがあるのです。踊りから生まれた音、身体から生まれたリズムはそういうかたちをしている。

 

これは、ちょっと中南米な感じになりました。

無題

July 10,2017 Fuku Ikeda, photo of a paper artwork
July 10,2017 Fuku Ikeda, photo of a paper artwork

はっきり見えない。ここちいい。

Vague and comfortable.

音と言葉を旅したい

遠くに行かなくても、遠くに行ける。遠いところも、ここにある。

即興で紡ぐ音と言葉

ウクレレで簡単なモードなコードを弾きながら、思いついた言葉を歌ってみました。音に寄り添うといろんなイメージが浮かびます。それをできるだけ”まるい言葉”にして吐く。ブルースに限りトゲを刺しても(刺激のあるイメージを突き刺しても)構わないというルールを自分でつくりました。声の質はふわっとしているので、多少刺してもそんなキツいことにはなっていかないと思います。全体、これ、すごく気持ちがいい。やってて、すごく気持ちがいいものです。時間を忘れてしまうので、目覚まし時計が必要です(代替物を思案中…例えば、ロウソクとかで…時間が来たら”テン”とかなるもの、落ちるものとか探しています。)。どんな景色が今後出てくるのか楽しみです。紡ぐ言葉、イメージは空中分解することもあります。それもひとつですが、基本は一つのものを追っていく感じにしたいです。どんな言葉が出てどういう展開をするかはその時次第です。「静寂のなかの躍動、躍動の中の静寂」がテーマです。今までの言葉のない朗読会のスキャットも使いつつ、言葉を乗せて、イメージが浮かぶような作品にしたいです。

 例えば…

July.9、2017の1試行の場合

ーーーー Bm/GーAm/Gを行ったり来たりしながら浮かんだものーーーー水の底をゆっくり這うように歩く。

大きな池がある。橋があって。橋をわたる。橋のうえにはシャボン玉みたいなたまころがいっぱいある。歩いてそれに脚が当たると、そのシャボン玉が割れる。割れる時、音がする。どんな音だと思う?…。内容はLIVEにて。

 

 July.8,2017の2試行の場合

ーーーー C7ーF7を行ったり来たりしながら浮かんだものーーーー徹底的にブルージーだった。

傷口に青いものを塗った。友達がすすめてくれた青いもの。ところが、これがかなり痛いぞ。ヒリヒリする。あろうことか、塗るのに使った指までヒリヒリする。良薬口に苦しというけれど、これもその類なのかな。なかなかとれない、指の青。傷口はうずくし、これがなおっていってる印なのかな。傷の赤と塗った青が絵具をまぜたみたいになって。

 

ーーーー Cmajor/GーB♭major/Gを行ったり来たりしながら浮かんだものーーーーこれは静かだった。

水ガラスの中を歩いてる。たぶん、水ガラスだ。これ、ただのガラスじゃない。ちょっと、とろんとしてるから。ちょっと足がねとつく。向こうがなんとなく見えるけど、はっきりは見えない。おそらく、外は真夏の昼下がり。でも、なかは涼しい。上を見上げると空の青が見える。白い光も見える。あそこが、たぶん太陽だな。しばらく、歩いていく。そしたら、向こうに、遠い水ガラスの向こうに黒い塊が見える。ごしゃごしゃ動く。何かは分からない。あれ、何だろう。かなり、大きい。黒いもの。なんだと思う?さあ。でもすぐに分かった。それは、大きな鳥だった。ガラスのむこうで、それが宙に上がったから。そのまま、真上にやってきて、一瞬あたりが暗くなり、それから、だんだん、明るくなった。その鳥はどうも、太陽目指して飛び始めたらしい。だから、だんだん、黒いものは小さくなっていった。白い光のなかに吸い込まれていった。真夏の水ガラスのなかでそれを見てた。

 

まあ、こういうのもひとつやな。

畑の作業

この時期の畑はかなり忙しい。草との戦い。手で取っていく。全部取らなくてもいいけど、野菜の大きな葉っぱにかぶさらないように、こまめに取る必要がある。かぼちゃ、ミニトマト、里芋、ジャガイモ、ニンジン、大葉、オクラ、さつまいも…これから楽しみですね。今日はキュウリの草取り。その後、雷雨にあった。音と光のライブパフォーマンス。畑の真ん中で雨をうけて、お腹に響く雷鳴とあたりを照らす稲妻を満喫。結構、たくさん落ちた。一緒に作業する友人が、レーダーの画像を見ながら、私に帰るタイミングを教えてくれた。

いきものの声

先日、ヨルチャさんで「詩と音楽のジャムセッション」なるものをさせて頂きました。参加者のみなさんの詩の朗読を受けて私が即興演奏するという企画だったのです。私は、これをさせて頂いたことで、大きな発見がありました。ヨルチャさんのオーナーさんは、詩演家と自らを呼ばれる詩人でいらっしゃいます。その方が、おっしゃったのは、詩と音楽でセッションをするなら、詩は音としてとらえていいと。実は、私がお客様の朗読された詩の意味をとらえようし過ぎてセッションが停滞する場面が何度もあったのです。けれど、その詩人が終わってから言われたのが、吐かれた言葉は音として受けて、私はその音に反応すればよかったんだと。これは、すごいことですよ。これは、もう、鳥ってことですよ。鳥は言葉を使わない。けれど、毎日彼らは確実に何か伝えあっている。または、独白している。私は、実は鳥が何言ってるか分かるときがあります。朝は「きもちいい」みたいな感じですね。巣に蛇が近づいてきたのも鳴き声ですぐに分かります。いわゆる警戒音を発します。悲痛な声もわかる。じっと、何も言わなくなったら、ヘビにやられていた後だったりする。

 

わたしたちは 言葉の意味をどれだけ共有しているのでしょうね。意味をいったん試しに横に置いてみて、人間も鳥になって、言葉を音として、鳴き声としてとらえたら。人間が”いきもの”として鳴く気がする。もちろん、言語の垣根も超えていける。

 

鳥ならぬ人間といういきものとして楽器をもったり、詩を朗読したりする鳴き声セッションなら、コール&レスポンスで進めると楽しいかもしれません。前のひとを受けて音で返す場合は、同じくらいの長さで返してみる。真似して、オウム返しでかえしてもいいかもしれない。MCを含め参加者すべてが対等で同じだけ順番が回る…。そういう工夫をもっとするべきだった。反省は尽きないですが、貴重な経験となりました。これから、私が、身体から生まれる音、音楽について考えを深めていく材料をたくさんいただきました。7月2日の「詩と音楽のジャムセッション」にご参加いただいたみなさま、ヨルチャさん、本当にありがとうございました。

 

 

夏の仕事

10年ほど前に買ったBOSSのDigital Recording Studio BR-900CD。

 

今日は、E.pianoを4回重ねて録音し、1曲制作。E.piano好きです。心地いいです。水に潜ったときに聴こえる音みたいな、母のおなかのなかで聴いていたような音が(おそらくですが)します。オルガンの音から鈍い鈍い金属音まで。私がイメージする打楽器の音として使うのにその手軽さからして申し分ないです。

細胞の為に音を奏でる

 

私は、いつも思うことがあって。私の細胞ひとつひとつを最後まで使い切りたいと思うのです。私は、とても欲張りなのです。けれど、細胞を生かす場がなければ。細胞ひとつひとつを存分にこの世に踊らせて、使い切ろうにも、舞台がなければ。舞台をちゃんちゃんと準備しておいてやらないと、細胞は踊る気もしなくなる。もう、嫌だと言って、殻に入られてしまって、いつのまにかなくなってますみたいなこと、ちょっともったいないなと思うのです。その舞台を私は、死ぬまで毎日、ちゃんちゃんと準備する。ちゃんちゃんと準備していきたいのです。それは、どんなかたちの舞台でもいい。方法は限らない。

 

//まずは//細胞が踊る舞台のつくり方:食べること、身体を動かして働くこと、入浴すること、寝ること、調子に乗ってひとまえで歌うこと、観察すること、笑うこと、刺すこと、愛すること、ひととつながっていることを時々確かめながらひとりになること、時々記号で遊ぶこととそのあときれいに記号を消去すること、天気のいい日を逃さず布団を干すこと、掃除洗濯をすること、どっかでがっつり働いて貯えること(随時追加)

 

//それから//私は//いろんな細胞のこと思う:自分の細胞、他人の細胞、ヒト細胞、哺乳類の、鳥の、爬虫類の…、原生動物の、ボルボックス、酵母…

 

//最期に//私は//細胞のために音を奏でたいと思う

 

細胞にあてて音楽を奏でる:細胞宛のHappy Birthdayがあってもいい。レクイエムも。そのあいだを埋めるいろんなダンスを促すもの。ヒト細胞にむけて奏でたい音はもちろん、私たちの細胞ができるまでの進化の過程ですごしてきたあらゆるいきものの細胞へリスペクトしたい。愛おしいと伝えたい。あなたが必要だと伝えたい。踊ってほしいと伝えたい。そして、今存在するあらゆる細胞に存分に踊って頂きたい。私は細胞が踊るためのビートを提供したいです。私の役割は、そのビートをちゃんちゃんと打つことです。細胞の為のビート。こめられるすべての愛をこめて。

 

 

追記:細胞は自分で自分の存在を終了させるプログラム備えていると聞いたことがあります。アポトーシスと呼ばれています(Wikipedia アポトーシス)。それがあるから、世代交代していく。どんどん、古いものが新しいものに変わっていく。それを、みなさんは細胞の「死」と呼びますか?私は、そういうふうにとらえてなくて、それは、最後のダンスで、必要なダンスだととらえています。悲しむべきものでもないし、感傷的になるべきものでもないと思います。ただ、原子爆弾の放射線を浴びた細胞が、このアポトーシスを起こして皮膚上で斑点になっていると聞いた時は、やるせない気持ちになったのを覚えています。これは、極端な緊急事態の話です。けれど、私たちの日常にあるレベルの話のなかで、まだ踊れる細胞に「もう存在したくない」なんて思わせたくないな。つまり、逆に、細胞というのは、「細胞さん、あなたが必要だ!愛してる!」と歌っているのを聴いて、元気に踊りたくなるようなものかもしれませんよ。だから、これやってみようと思います。上の。いつか。

なかなかほどけん

例えば、いくらやってもほどけない糸があったとして、それを、捨てるか、ほどきつづけるか。もし、新しい糸がきれいに巻かれてすぐそこにあるなら、それを捨てて新しいのをとる。でも、それが、一回切りで渡された糸で、嫌だと言って捨てたら、もう、もらえなかったとしたら。一生懸命ほどくしかない。そういう作業です。私は、そういう作業をしている。

 

けど、不思議なことがあって、時々、ほどけてることがある。きれいにいい感じで、ふんわりほどけるところまではいかないけれど。糸がからんでいるというより、糸のかたまりが空気をとりこんで、ちょっと綿みたいになっているときがある。そのときは、絡んだ糸を持っているのもそんなにまずいことでもないかもと思う。けれど、いつ、どういう条件下で糸のからまりが空気をもって綿みたいになるのか、ちょっと、私はまだ読めていない。把握できていない。その条件を。

 

それと、よくみると、相当糸が絡んでて、もう、どうでもよくなるときもある。そんなときは、そんなものないふりをして、生きていく方法もある。ただひとつ覚えておかないといけないのは、ないふりをして生きる場合、他人とうちとけることはない。自然にひとりを好む。構われたくないと思う。それも、長く続けると心地よく、楽しい。まあ、そういう人間が昔もいて、遺跡から時々ものが出てくるんだと思う。何に使うのかわからないもの、がらくた、人の顔の落書きされた茶碗とか、いろいろ。

 

さて、このうち、どれが、あなたに居心地のよい過ごし方ですか?

私の場合、圧倒的に遺跡組です。けど、運よく糸が綿みたいに空気を含む瞬間を見る時に、ああ、いいなと思う。そのあと、ほどけるかもと期待を持つ。ほどく作業をちょっと再開して、それで、やっぱり無理で。それで、やっぱり、遺跡組がこのうえなく心地いい。以上を、いびつなサイクルで繰り返している。

壁の記憶

昨日、ヨルチャさんでの即興演奏ライブ&個展が無事終了いたしました。お越しいただいた皆様、本当にありがとうございました。

ーーーーーーーーーーーーー

いろんな刺激に満ちた大阪でのライブと個展でした。様々な自問ができて、気づけたことは大きいです。ちょっとずつやっていきたいと思います。このような機会を与えてくださったヨルチャさんに感謝です。本当にありがとうございました。

 

Fuku Ikeda’s solo exhibition, 2017 Summer, gallery. yolcha
Fuku Ikeda’s solo exhibition, 2017 Summer, gallery. yolcha

ジンジャーミルク

今、ギャラリーヨルチャさんにて展覧会とライブをやっています。今日の午後6時からライブあります。壁に歌います。ちょっと、不思議なライブですよ。もし、ご都合よければ是非。

 

昨日もおとといも、展覧会をしていることで、私は、いろんな方と出会ってお話が出来ました。それは、本当に幸せなことです。これがあったから、出会ってその人の言葉が聞けたわけですから。人に出会える時間は私にとって貴重なものです。あと、3日、楽しみたいです。在廊中は、ぼんやり鼻歌を歌いながら過ごしています。歌うには気持ちのいいところです。ひとりになれるというか。自分というものを忘れられるというか。くつろいでいる。

 

ヨルチャさんはcaféでもあって、私はジンジャーミルクにはまっています。ジンジャーの香りが爽やかで、でもミルクだから優しいですよ。スパイスはシナモンがのってる。

 

早苗饗 さなぶり

今日、ふるさとの村は早苗饗をむかえます。村の掲示板に「さなぶり」と大きく貼り出されます。これが貼りだされると、「みんなの田んぼの田植えが終わりましたよ。お祝いしていいですよ。」という合図です。今でこそ、田植え機などで植えますが、昔は、みんな手で植えていたので、みんなで乗り切る一大イベントだったわけです。個々に作業する時代になっても、各家には、時期を選ばずいろんなことが起きます。田植えの時期に、親族の出産が重なったり、見送る人が出たり。それでも、田植えはこの夏至の時期を逃せないので、どうにかこうにか作業を済ませなくてはいけません。近所の終わっていない田んぼのことをみんなが気にかけていて、どこかに温かい目を感じます。必要なら余った苗を差し上げますという気持ちがあったりします。私たちも、お世話になったことがあるのです。以前、発芽しなかった年があったりして。みんな無事に終わって、幸せです。

 

早苗饗には早苗饗餅をついて食べる風習があります。ちょっと珍しい、潰し小麦の入った甘いきなこををまぶしたお餅です。昨日、母がついてくれて、今日私は工房で頂きます。夏が来る味です。夏が来る。

理科部屋

理科が好きです。実験や観察と、宇宙のいろんなこと、フィールドワーク。たいしたことはしないけれど。身近な自然のドキッすること、怖くてゾクゾクすること、素敵すぎてゾクゾクすること、いろいろ。私の日常。

 

学生のころから理科が好きで、すごく楽しかったことを最近よく思い出して、またいろいろ興味が湧いてきています。地球物理学で、地下水の湧出域(湧き出すところ)や涵養域(沁みこむところ)なんかを詳しく調べたりしていました。水辺が好きです。池や川や、水の張った田んぼ、井戸、基本的に淡水が好きで、今でもどこか歩くたびに水をのぞき込む癖があります。青や緑の深い水に黒い大きな鯉が泳いでいるとゾクゾクします。池で鯉を見るとどれが「夢応の鯉魚」かなと思って見るのです。これは、雨月物語に出てくるお話で、人が鯉の姿になって琵琶湖を泳ぐ話なのですが、私も夢応の鯉魚になって、琵琶湖を泳ぐのを想像するのです。一番深い谷とかこわごわ探検したいな(最大水深-103.8m、平均水深-41.2m)。でも、私の肝では無理かな。たぶん、明るい処でぷかぷかして目がさめるでしょう。

 

理科に戻って、私が最近持っている疑問があって、「数字って何だろう。科学的な証明がどこまで信用できるんだろう。」と。実は、私は理科が好きだと言いながら、科学に懐疑的なところがあって…。自然を観察し、自然のなかの一部として生きる人間の知恵として科学があるのなら私はこんな疑問を感じないだろうと思います。自然界の大きな現象の一部であるのなら、それもそのまま受け入れようと思います。けれど、今の科学のなかには、人間の「頭のなかの世界」で自然を管理しようというような、自然のありようを受け入れることからは離れていっているような嫌いがあって。こういう世界が実現するなら、いろんな小さな神様や、精霊の棲み処が、私たちの目から見えないところに消えていくように思います。安全と衛生的であることと、効率の良さは大切なことです。でも、何か、ほかにも私たちの身体に必要なものがあるかもしれない。予測だけど、たぶんそれはあまりお金にならないものなのだと思います。だからこそ、後回しになっているのかもしれない。この疑問が的を得ているのか、外れているのかも含めて、考察していきたいです。

 

私たちの身体は、物質でできています。だから老化もするし、同じことをやりすぎると疲弊もする。必ず、終わりが来ます。どういうわけか、こんなに複雑な機能と骨格を手にして、そこらを歩き回っているけれど、考えたら奇跡的なことで、でも必然的なことだとも思える。人間の身体は自然から生まれたものです。生き物や緑の不思議な世界のなかに私たちの身体も入っているはずで、一方また、私たちの身体の中にも進化の過程で触れてきた海や緑の世界、そのリズムや音が潜んでいるはずです。そんなことを意識してこの世界を観察したいなと思うのです。

 

 

 

 

 

 

数字について

 

 

数字って何なのかなって思います。時間によらずいつでも成立するものってあるのかな。私は同じ時間を2度味わったことはないし、言葉で書かれたものも読むたびに違う感じ方をする。もしかしたら、数字や数式もその時と場所で変わっていくものかもしれない。数字の感じ方ってどんな感じ?自分でも分からないな。数字で言われると、どうしてそんなに手放しに納得しているのか不思議です。昨日の夜聞いた数字を、今日の朝も正しいと思っているけど。

 

数字は確かだということを、疑ってみたいな。なんとなく、なんとなく、これが曲者なんじゃないかと実は思っています。頭(大脳新皮質でしょうか)の世界で、ものごとを管理する、コントロールするということを随分この’数字’が助けてきたと思います。人間の’可能’をつくってきたように思います。でも、これがさほど確かでないと分かったら、随分気楽になるのにな、なんて。

 

私はランダムというものに興味があって。数字はランダムに散らされて、初めてその本領を発揮するような気がします。つまり、遊べる気がします。私たちの身体に馴染んでくれるような、私たちと対等な関係になってくれるような。ランダムに散った数字をもとに考えるのなら、空間が広がる感覚を覚えるのです。数字も時間に沿って刻々と動いているのではと。そういうものだと思って数字を扱った方がもっと自然界に合った、私たちの身体に馴染む科学になるのではと。逆に、数字のまま、数字を使って何かを語られたり説得されたりすると、時々窒息感を感じます。それ以上、考えが発展しそうにない窒息感。なんでかな。

 

数字が不確かで、さほど信用できないと、数字の世界で証明できたら一番いいのですが。数字に私たちの生活がかかっているのなら、ずっとこのままなのでしょうか。数字と家族を養うことはかなりつながっていますから。そういう風に歯車が回っている限りは、それに合わさざるをえないのでしょうね。

 

自然の中に身をおくと、上に書いたようなアンバランスがほぐされて治る気持ちがします。山とか木とか、水辺とか。数字との接し方は、正直私自身の個人的な問題なのです。

 

 

 

 

 

苦手な記号

遺伝子は今でももてはやされているのでしょうか。私が子どものころもてはやされていたな。分かりやすい記号だから。まるで、いきものを記号であらわしたかのように思われて。

 

私は、ちょっと記号が苦手です。この遺伝子にまつわる”可能”の幻想は、特に苦手です。

 

それは、一番大切なものが、完全に抜け落ちているように思うから。時間の上にのって、初めて遺伝子が動くということを、誰も言わない。時間の上でみんな踊っている。記号をあっちゃこっちゃにランダムに飛ばしまくってるかもしれない時間の上に、私たちはのっている。遺伝子という名の記号だけを見て、まるで時間に寄らずいつでも、いきもののかたちや機能を管理できるなんて、ある程度はできても、ある程度はもうできないと思うのです。でも、確かにある程度はできるのでしょうね。

 

実際に研究されている方は生物を愛している方が多いと聞くのです。生き物への愛情から研究されている方がほとんどですと。生き物への敬意なしにはできない研究ですよと伺ったことがあるのです。けれど、それにお金がまつわると、ぎこちないものになっていくような気がします。私は、科学をあんまりきれいに整ったものだと考えない方がいいかもしれないと思い始めています。”例外と予想外の海”だと思っておいた方がいいような。正直、その例外と予想外の方が面白い。科学技術(特に生物に関わる)によってモノをコントロールしたかに見えて、例外と予想外に引っ掻き回されて終わるのが現実というか。それは、時間のなせる業のような気がします。その瞬間が決して再現されないがゆえの。記号も時間によって散らされ続けているかもしれない。私たちいきものは特にそんな時間に依存しているモノのように思うのです。だから、いつも新しい一瞬一瞬を意識して、観察しつづけるしかないように思います。そうやって観察を続けるなら、その結論はいつも「いきものへのリスペクト」に満ちたものになると思います。そういう研究をされている方が、きっとたくさんおられるんだろうなと予測しています。もてはやされていないだけで。観察の結果、どんなに、いきものが素晴らしいか、それをもっと発信していただけたらな。科学が、自然界への深い理解を促す情報を出していくものだととらえて、研究、発信してくださる先生方がいたらなあ。たくさん、おられるだろうけど。静かに研究されているんだろうな。いわゆる、在野かな。南方熊楠氏はちょっと変わった人だったようだけど。まあ、これは家族を養うことを度外視した素人の願いですが、科学こそ、どう利用するかを考えなくてよい世界であったらななんて思うのでした。観察したそのままで価値があるような、そんな気がするのです。

ふるさとの田植えの作業

無事に苗が育った。その苗代を各田んぼに運ぶ作業。田植え機で植えていったあと、苗代が入っていた箱を回収して、水路の中で箱を洗う作業。

 

空と緑と水。田んぼがちいさい海みたいになってる。農家は夏至までが忙しいです。全身筋肉痛。泥のように眠る。

 

うちの田んぼにメダカのこどもが泳いでいました。初めてです。こんなの見るの。村を流れる水の水質もよくなっているように思います。緑のマツモがさらさら水にたゆたう。どうしたのかな。吉野川分水がこの時期流れ込むので、水質が格段よくなり、水量が増えるのは確かなのですが、ここ10年では見ない光景が今年はあって。ちょっと不思議だな。上流で何かあったのかな。水質がよくなる何か。分水の量が増えたのかな。

畑の作業

今日は、奈良市田原地区の農家の友人の茶畑にて作業。有機栽培の茶畑は、草が出るので、これからの番茶の刈り取りに備えて、きれいに草を取った。そのあと、かぶせ茶の黒い膜をすべて巻き取る作業。かぶせ茶は、お茶の木に黒い膜をかぶせて、柔らかい甘い茶葉を育ててつくられる。

 

今日、マムシを見た。顎のはった頭の部分ですぐに分かる。身体に斑はまだない子ども。実は、生きたマムシを見るのはこれが初めてだった。私が小さかったころ、大人たちが身体の切れたマムシの死骸を私たちに見せてくれることはよくあったけれど…。だから、ちょっと今日は特別な日です。

レインスティック

Rainstick (2017) Fuku Ikeda, paper, wooden toothpicks, ⌀4.5cmxL98cm
Rainstick (2017) Fuku Ikeda, paper, wooden toothpicks, ⌀4.5cmxL98cm

雨の音がする擬音楽器です。南米チリや南西アルゼンチンのネイティブアメリカンにルーツをもつ楽器です。これを鳴らすことで雨雲を呼ぶとされています。苗代のマルチ(稲の苗床に敷くシート)の芯に爪楊枝を螺旋状に刺し込んで制作しました。

たね

壁に歌うたね (2017) Fuku Ikeda, paper, 32x32x39cm
壁に歌うたね (2017) Fuku Ikeda, paper, 32x32x39cm

この形はセンダンという木の実の中に入っている種子のかたちに着想して生まれたものです。ひだのある、小さくて、白くて、まるいもの。みなさんには、これがどんなたねに見えますか?何が出てくるたねでしょう?

 

私にとっては、「静寂のたね」です。静寂を生みだすたねです。私がいつもテーマにしていること「静寂のなかのリズム、リズムのなかの静寂」。私は、躍動も静寂のなかに入ってこそ得られるものだと思っています。静かななかにあるものが、一番力強くものを動かす気がします。動かすと言っても、誰も気がつかないくらいゆっくりしずかに動いていって、けれど、確実に波動が広がっていく感じです。

 

 

Feel the wind

 (2017)Fuku Ikeda, mineral pigment, ink, paper, paper board, hair pin, book size: L16xW22.5xH4cm
(2017)Fuku Ikeda, mineral pigment, ink, paper, paper board, hair pin, book size: L16xW22.5xH4cm

ぼんやりながめる、窓をながめる

古い民家の窓たち。

窓に差す光をぼんやり見ています。

ここは井戸端。

今も現役の井戸があります。

水場は小さな神様の棲み処です。たくさんいるかな。どうでしょうね。大人の私には分からない。

青い窓の光。

静かになるのは、耳をすますからでしょう。

 

私は、こどものころ祖母によく買ってもらった和菓子を思い出しました。夏の和菓子で砂糖がけした透明な硬めの寒天菓子。見て涼しげなお菓子で、食べると砂糖がしゃりしゃりして。

 

不思議な世界がこの光には潜んでいますね。

これも水場の窓です。今は使われていないお風呂場です。

水場の窓は、その空気がもつ水分のせいで、見ている私自身が音のない沢にいるみたいな気分になっていて、それでますます静けさを感じます。おそらく、遠い昔の、哺乳類よりももっともっと前のころからの記憶で、水辺の暗いところの静けさが身体に沁みているのだと思います。

さっきも出てきた窓ですね。井戸端の窓です。この窓の神様は、おそらく陽気な神様です。楽器を持っているとしたら、何を持っているでしょうね。私はしゃんしゃんっていう鈴だと思うな。きまりなく、きまぐれにならしていると思う。

空を切り取るものは、窓と呼んでいいでしょう。

お風呂をたく煙突と屋根でできた窓。初夏の空。まだ青い光の窓。もうすぐ夕暮れ時をむかえる。

稲の種を蒔く

奈良県橿原市観音寺町から望む葛城山 photo by Fuku Ikeda  Apr. 29, 2017
奈良県橿原市観音寺町から望む葛城山 photo by Fuku Ikeda Apr. 29, 2017

本日無事に苗代作業を終えました。無事発芽しますように。

田んぼは今レンゲ畑。レンゲの根っこは天然の肥料です。最近、レンゲを使ったお米の栽培に取り組む田んぼがふるさとで増えてきました。私たちの田んぼでは近くで養蜂をされている農家から種を頂いてまいています。ミツバチがいっぱい蜜を取っていました。かわいいですよ。私たちは、毎年蜜を頂きます。花が終わるとすぐ耕して田植えの準備に入っていきます。

 

畑の作業

明日の販売の準備。春菊を摘んで洗う。すべての畝の春菊を摘んだ。もう、春菊も終わりですね。

 

精霊のすみか

最近、「精霊のすみか」をさがしています。どういうところでその存在を感じるかなとアンテナをたてています。今日行ってきた田原の山と自然の中には、いっぱいいました。相当堂々と。大量の鳥の声がシンクロして響いたとき、まるで大きな一羽の鳥の声のように聴こえました。そして、特に、あの竹藪のなかで感じたものは強かったです。何かが見えるとかではないですが、私自身がとても静かになって、人知を超えた畏れるべきものの存在を感じるというか。

 

けれど、どうかな、自然の中以外でも私は見つけたことがあります。例えば、古いガラス窓。蔵の二階の古道具の中、あの糸車とか。街中でもあります。古い民家の窓。放置された植物に食べられそうになっている窓。錆びた歩道橋の下の暗い処。こういう場合は、小さなかわいらしい愛すべきものの存在であったりします。妖精のような、これも「精霊」だなと思います。ちょっとひとことでは説明できないですね。

 

子どものころ、読んだお話で、そういうものの存在を感じたお話はたくさんありました。小川未明とか。安房直子さんの作品も。届かない思いが描かれているような気がしました。届けたかった人に届けられなかった思い、伝えられなかったことを心のどこかにひっかけている登場人物がいました。そのひとたちは、精霊のようなものに助けられて、思いを時空を超えて精霊に伝達してもらうような、そんなお話。淡い感覚ですが。

 

ちょっと大きくなって小泉八雲にはまって、この人のものとなると、かなり、はっきりと精霊の存在が記録されています。小泉八雲さんは、その観察眼からしてすごい人で、これは別の話でまた書きたいと思います。いや、やっぱり、ここに書きます。彼がアメリカで新聞記者をやってたころの著作を読んだことがあって、その時代のアフロアメリカンたちの音楽について書いているのを読んだことがあります。いわゆる、ブルースについて。彼は、誰かほかの人の価値観を借りてものを見るんじゃなくて、その時の自分自身が素晴らしいと感動したことをそのまま素直に言葉にできる、偏見のない目を持った人です。その記述を読むと、そのころのアフロアメリカンの人々の決して楽ではない生活のなかで、演奏されている音楽の素晴らしいグルーブが聴こえてくるようでした。こういう目をもった人が、明治時代の日本にやってきたんだなと思って、今もその呼吸が残っているなと思うのです。もちろん怪談もいいですが、日本に来る以前の著作に考えさせられるものがありました。全然関係ない話になりましたが、でも、そういう彼が、「精霊」や説明できない不思議なものに強い興味を持っていたことは、決して無関係ではないと思うのです。

 

大自然から、小さな身の回りのものにまで宿る精霊や、神様は、こちらの、私の心次第で感じられるものだと思います。私は時々増長して、調子に乗って、まるで自分というものが「ある」かのように感じて、謙虚さ失うことがあります。そうなると、もう何も感じられなくなる。すべてがどうでもいいものに感じてしまいます。けれど、外へ出て、草むらへ行って、仰向けに寝て空を見て、鳥の声を聴いて、それをマネて歌っていると、また、そういう感覚を思い出します。気を付けないと忘れてしまうようなことなのです。自戒の念も込めてですが、私はこちら側の人間でいたいと、最近強く思っています。つまり、説明できないものや、届きそこねたねじれた思いを届けてくれる淡いものとともにいられたらと、こちらの側にできるだけ長くいられたらと最近、折に触れて思うのです。

例えば、こんな建築物に遭遇したら…

子どものころから、ずっと身近にあったミキサー&ジューサー。但し、ジューサーとして機能しているのは、見たことがない。

 

私には、これは建築物にしか見えない。子どものころから、これは、建築物にしか見えなかった。重厚な謎の構造物(やたらに重い)。いくら眺めていても飽きない。どこが入口かなとか、どういうふうにこのパーツそれぞれが関連するのか、どういった建物なのか見当もつかなくて、いくらでも眺めていられたのでした。今見てもその印象は何も変わらない。

 

いろんなシェーキを母がつくってくれました。イチゴがいっぱい取れた時はイチゴシェーキを、バナナシェーキは年中。キウイがいっぱいできた時のキウイジュースは酸っぱかったですが、本当に爽やかな黄緑色でした。チーズケーキの材料を混ぜるのにもよく使っていました。それで、やっぱり、壊れていても捨てられないです。

題をつける

苔の上に浮いているミルク (2017) Fuku Ikeda, Japanese paper, paper, 27x27cm
苔の上に浮いているミルク (2017) Fuku Ikeda, Japanese paper, paper, 27x27cm

苔の上の無重力を体感しているミルク。

 

私は、学生のころから、理科特に物理学に興味がありました。仮想空間に透明なベールをふわっと置くと、山や谷が出来て、その山にボールを置くと、さあ、どっちに転がる?みたいなのを計算する話を聞くのが、学生のころから大好きでした。意味は、よく分からない。数式もよくわからないのですが、イメージが好きでした。磁力線など目に見えない構造、存在の一律でないムラに興味があります。物理の実験では、シンプルな実験が好きで、今でも忘れられないのは、細いガラス管から水の粒を一定に飛ばして落下させ、何秒間隔だったかストロボをたいた時、透明な水の粒が空中に静止したようになって、放物線を描いていたのが夢のようでした。

 

音楽で即興演奏をするとき、物理で考えていたようなイメージをもってやっているときがあります。例えば、液体が球体になって無重力に浮いたような。上の苔の上のミルクの球体みたいなものを。

 

 

空のたね

空のたね

 

その色の空をつくるたね

このたねを植えると

その色の空ができる

 

 

 

本をひらくと、5つの封筒それぞれに空の色をつくるたねが入っています。これらのたねで5色の空をつくれます。

絵本サイズ:16x22.5cm 

 

畑の作業

今日の作業。里芋の植え付け。玉ねぎの草取り。

モグラ。死んでいた。

一緒に作業するフレンチシェフの卵焼き、本当に美味しいです。海苔が「の」の字に入っていて、青のりも入っていて、磯の香りがします。人生の先輩方のお話は、どこまで真面目に聞いていいのか、ちょっと戸惑う楽しい他愛ないことなのでした。

作宝楼新聞

作宝楼新聞 既刊分(一部除く) 無料PDFダウンロードできます。」とのこと!是非、読んで笑って下さい! 私が尊敬する奈良女(ならめ)さんが編集されている奈良時代の続日本紀をもとに綴られたパロディー新聞です。奈良女さんは4か国語を話される才媛で、奈良時代に生きるネイティブ奈良時代人ですが、現代の畑でもちょくちょくお会いするような気がします。パロディーって、身体にいいと思います。特に精神の健康に良いと思われます。笑うことを目的にした、我々庶民の遊びです。私は歴史とかよくわからないのですが、初刊から大ファンです。長屋王にまつわる人々を描いた連載小説も充実。私は広告欄が好きです。特に求人情報が楽しい。それから、荘子の人生相談も。読むたびに、へへっと思う。小気味いい。どれが本当でどれが嘘かだんだん分からなくなってきます。実社会の「信頼と実績」という言葉まで、信用して大丈夫かな?と警戒しはじめる(笑)。当工房の広告も載せて頂いています!ラジオ平城京に出演希望!

 

春の色

 

菜の花を茹でるゆで汁の色こそ春の色だと思うのです。

境界から滲む

見たことのない鳥の声を真似て歌う (2017) Fuku Ikeda, Japanese paper, 29x37cm
見たことのない鳥の声を真似て歌う (2017) Fuku Ikeda, Japanese paper, 29x37cm

天然酵母でパンを焼く

いつも、お世話になっている奈良にある6坪の本屋さん「とほん」さんが、パンのイベントを企画されているとのこと。出品できるものがあったら参加したなと思っています。上は、レーズンを使って天然酵母を起こしてカンパーニュ(田舎パン)を焼くとりさんの絵本。

 

パンカフェをやっている友人のお店(パンカフェ ハルソラ)が舞台です。

畑の作業

今日の作業。ひきつづき玉ねぎの草取り。3畝。収穫は5月から6月。

 

4月22日(土)西大寺マルシェにて野菜販売予定。

Song for the Wall in the basement

上段左から白い螺旋 (2017) Waxed paper/ 静まる (2017)Japanese paper, Japanese paper/ リズムがはねる(2017)Japanese paper/ 下段左から リズムの湧きだすところ(2017) Japanese paper/ Untitled (2017)Japanese paper
上段左から白い螺旋 (2017) Waxed paper/ 静まる (2017)Japanese paper, Japanese paper/ リズムがはねる(2017)Japanese paper/ 下段左から リズムの湧きだすところ(2017) Japanese paper/ Untitled (2017)Japanese paper

数珠繰り(じゅずくり)

私のふるさとでは、特別な日に、直径2mほどの大きな数珠のまわりに近所の15、6人が車座になって、”南無阿弥陀仏”と唱えながら、その数珠を100回まわす風習があります。終わるまで結構、時間がかかります。おそらく、30分くらい。7月24日の地蔵盆の夜(私の村では旧暦のままの日付でお祝いします。通常は8月24日が多いようです。)と、人が亡くなってから49日目の日にこれをします。

 

これが、とっても面白くて。そのリズムは3連裏拍ノリになって(つまりSwing Jazz)、しかも、皆がノッてくると、数珠がいきものみたいにバウンドして波打ちます。持って回していると手が痛いくらいになってきます。私は子どものころ参加した時に、よく数珠から手を放して、数珠がびょんびょん波打ちながら目の前をとおり過ぎるのを見ていました。

 

おそらくですが、土着のリズムは、たいていこういった共同作業から生まれたのではないかと予測しています。今の例は大きな数珠でしたが、例えば「大綱とび」にも、独特のリズムがありますね。呼吸を合わせて中に入って、その呼吸さえ外さなければ出入り自由です。当然、綱に働く重力と回す人の呼吸とが相まってリズムが生まれるわけですが、土(Earth)から生まれるリズムというのはたいていそういうものかなと思うのです。私は、そういうものに興味があります。人間の頭のなかで記号を使って作ったものより、体と土から生まれてきたような、無理なく存在し続けているものに興味があります。リズムは、祈りと密接な関りがありますが、そういうものが大切な人を亡くした悲しみを和らげたりするのでしょう。お経を唱えるのも、亡くなった人のためとはいえ、実質的な機能としては、残った人の癒しにつながるからするのかなと思うのです。

ふるさとの畑

2日間のふるさとでの畑の作業。

秋冬の野菜も終わり、夏に向けた畝づくりに入った。

まずは、樹木の如く育ったブロッコリーをすべて抜く。そして、その下のマルチ(黒いビニールシート)を取る。この作業のあと、去年のミニトマトの支柱などを抜いて、同じくマルチをとる。夏のスイカ畑に備える。

作業中にジョウビタキのオスが登場。マルチをめくった下には、虫がいっぱいいる。しばらくして、モズのオスも登場。

 

土筆もいっぱい発見。ヨモギをつんで塩の効いた薄いころもの天ぷらにした。春の香り。

終日冷たい風が吹いていた。

畑の作業

今日の作業。玉ねぎの草取り。玉ねぎは一番雑草を嫌う野菜だと教わった。丁寧に草をとった。

 

 

畑の作業

今日の作業。あさっての販売に向けた準備。小芋を洗って、選別して、袋詰め。チンゲン菜、ほうれん草、大根、畑にあるすべてを収穫して、袋に詰めるなどした。

 

きつね

先日、畑で出会った友人は、その畑でキツネを見たというのです。なんてことだ!私は、身近に住む”生”ギツネにはまだ会ったことがないのです。会いたいな。しっぽが体くらいあって、顔がとがってシュッとしていたそうです。

 

私は、アーティストのでんがみさんのファンです。去年の”はならぁと”(奈良にある町家を会場にして行われる芸術祭です)で出展されていて出会ったのですが、最高でした!最高です!私がそこで目撃したキツネはタコみたいなのと将棋をさしていました。あそこに、一日中座っていたかったです。アニメーションってこんなことができるんだなあって、しばらくぼんやりしていました。

 

畑の作業

今日の作業。野菜の収穫と袋詰めなど販売の準備作業。小芋を30株ほど掘る。チンゲン菜も収穫。

 

 

畑の作業

今日の作業。ルッコラの黄色い葉っぱをきれいに取り除き、緑の葉っぱにしっかり日が当たるようにした。

トンネル

Graphic artwork by Fuku Ikeda
Graphic artwork by Fuku Ikeda

魔方陣


漢詩を作りました。疲れました。

魔方陣を漢字でつくるような作業でした。

五言絶句です。右の図の漢字の横にある□が音を表しています。漢和辞典をひくと載っていて、それをメモしていきます。漢字の読み方には、抑揚のない平声(ひょうしょう)○と上下に抑揚をつけたりこもった音を出す仄声(そくしょう)●というのがあるそうです。その並べ方にちょっとしたルールがあって、それに従って漢字を並べていきます。例えば横の並びで見た時上から2番目の列が、○●●○ときたら、4番目の列は●○○●となるように並べます。また、2句目と4句目の最後は同じ音で韻をふむようにします。このような音のルールにしたがって並べるのは、唐の時代にできたものでそれ以前からあった自由な作り方の古体詩に対して近体詩というそうです。ああだこうだと並べ替えて、4、5時間、辞書と格闘しついに完成です。

 

漢詩をつくって楽しいのは、漢字の音をそろえるなかで、作者が当初意図しなかった意外な景色に仕上がることでしょうか。漢字の意味も舐めまわすようにつくるので、漢字を含めて言葉が立体的になっていく気がしました。

この詩の意味は、以下。

 

梅の枝が青い空に向かってのびていて、

輝く太陽は、ゆっくりと動いてゆく(昼間はそろそろと過ぎ去ってゆく)。

うつらうつらと見た夢は広々と果てしないもので、ひっそりしていて、風も無かった。

ただ誰かが打っている小さな鼓の音だけが響いている。

 

平城京跡をイメージしてつくりました。あそこに梅の木がたくさんありますね。この前そこでジェンベをトンとやったら気持ちよかったです。

畑の作業

今日の作業。

まず、木くずなどを発酵させたものに、干し草などを少々混ぜた。天然の肥料。

まだ若いレタスの畝にそれを置いていった。

明日は、そのレタスの上に小さなカバーがかかるはず。あたたかく冬を過ごしてもらうために。

 

畑猫ちゃんに餌をあげた。チシャネコみたいに大きくなっていた。冬毛になったのかな。

気持ちいい、快晴だ!12月とは思えないほどしっかりとした日差し。

 

香るスパイス

大阪のCalo book shop & caféでの展覧会、ライブも無事に終わり、お越しいただいた皆様にこころより御礼申し上げます。

 

今日午前にCaloさんより、私の作品の残りが届きました。本を開けるたびにCaloさんのカレーの香りがします。荷をほどき、スパイスの香りを反芻した後、楽しい展覧会会期中の記憶とともに、終わったんだな、ちょっと寂しいなと、思うのでした。

ごみまみれ

早朝2時半、22日から始まる展覧会の準備をしていると、工房の作業台にカゲロウがやってきてクルクルまわったり、羽をパシャパシャしたりして騒いでいました。調べるとオオクサカゲロウでした。

 

子どものころ、友達がアリジゴクをいっぱい飼っていて私は遠巻きに見ていたけれど、その時にこれはウスバカゲロウになると教わりました。今調べてみますと、アリジゴクのウスバカゲロウは、いわゆる「カゲロウ」とは縁遠い、また違う全く別の虫だそうです。「カゲロウ」と名の付く昆虫で、私が話に聞いたり見たりしたものでは以下のようなものがいます。

 

<成虫の期間が1日しかない、いわゆる”カゲロウ”>

カゲロウ目に属する昆虫の総称。卵のころから水中で大きくなる。成虫は軟弱で長い尾をもち、寿命が短い。

 

<ウスバカゲロウのなかま>

アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ科の昆虫またはその一種、ウスバカゲロウを指す。ウスバカゲロウはアリジゴクの成虫。2-3週間は飛ぶそうです。カゲロウ目とは縁遠い虫とのこと。

 

<クサカゲロウのなかま>

アミメカゲロウ目クサカゲロウ科に属する昆虫。木の棒きれなどに卵を産んで、幼虫はアブラムシやダニなどを食べて陸上で育ちます。クサカゲロウのなかまも1日しか飛べないというわけではないようです。

 

「カゲロウ」ややこしい。昆虫の分類方法に興味を持ちました。

 

 

 

私はクサカゲロウの卵の形状が好きです。木の格子戸などでよく見かけます。見つけた時に幸せな気持ちになる卵です。2cm位のてぐすのような透明な糸が一本ピッと立っていてその先に白い卵が1つ付いています。風でふぉよふぉよしますが、柔らかくしなって強いです。この卵のことを「優曇華(うどんげ)の花」と呼ぶそうで、夏の季語にもなっています。

 

今回の調べもので最も興味をもった記述(Wikipedia)は、「クサカゲロウの種によっては幼虫のころ、背中に様々な植物片や捕食した昆虫の死骸などを引っ掛け、背負う習性をもつものがいる」ということです。埃やごみを背負った幼虫の写真も載っている。(参照:Wikipedia「クサカゲロウ」)何なんだ。これは。この行動はアリなどの攻撃から逃れるためのカムフラージュであると言う説があるようですが、私はまた違った説を思いつきました。飽くまでも、素人の予想ですが、ごみを背負っているうちに、背中のごみのなかにダニが湧いて、つまり、ごはんが背中で生まれて、それを食べているのではないかと。ただ、海外のクサカゲロウの幼虫で砂粒を背負っているものもいるらしく、こうなると、私の説では役に立たないですね。クサカゲロウ、Chrysopidaeのなかの分類項目に「通常型、naked」と「塵載せ型、debris carrier」とあります。「塵載せ型」なんてかわいらしいし、滑稽で、真面目に聞いていていいのか少し不安になる。これから、外で、動くごみや埃があったら注意して見ます。ごみまみれのクサカゲロウの幼虫に是非会いたい。どの塵を載せるか思案している幼虫、載せた塵のことを後悔している幼虫(背負った感じが気に入らないとか、せっかく背負うならもっとグロテスクなものを…等々)いろいろいそうです。

 

さて、工房の机のオオクサカゲロウはプリンカップで捕まえて今、外に逃がしました。今日は外が冷えますね。

 

オリオン座に カゲロウ放つ 夜更け哉

畑の作業

今年の新米も無事にできあがって、幸せな時間です。

今日は、また、畑。早生の玉ねぎの苗を300本ほど植え付けました。明日は雨の予報なのでちょうどいい。

パロディー

当工房が広告でお世話になっている”奈良時代の市井の人々の息づかいを伝える「作宝楼新聞」。その作宝楼グループのうち作宝楼不動産レジデンシャル のチラシが傑作です。思いつくまま、すぐに形に!逞しい想像力。作宝楼新聞は、続日本紀をもとにしたパロディーですが、年代や事柄は史実に基づいており、大変読み応えのあるものです。特に荘子による人生相談は興味深いです。ちなみに、当工房の広告は、’まだ生きてる人’の広告枠でご覧いただけます。

今日は休む

連日、何やらかやらで、ちょっと休まないといけないと思い、今日は何もしないことにしました。奈良へ出て、ミジンコブンコさんへ行き、民話やきのこの本やデザインとDIY家具の本などを読みました。チキンカレーを食べて、芸術家の顕在家はなさんにお会いしてお話しできました。本当にリラックスして次のことを考える元気を得て帰りました。ミジンコブンコさんではなぜあんなに本が読み進むのかといいますと、BGMを意識しなくていいからです。不思議な音がなっていますよ。聴きに行ってみてください。なぜかよく本が読める。

 

現在、ミジンコブンコさんでは3人展「ならとであって」が開催中(11月3日~23日)。

秋の落書き

GRAFFITI of AUTUMN (2016) Fuku Ikeda
GRAFFITI of AUTUMN (2016) Fuku Ikeda

BEAT IN GLASS

BEAT IN GLASS (2016) Fuku Ikeda, Graphic artwork
BEAT IN GLASS (2016) Fuku Ikeda, Graphic artwork

ノリ

先日、参加していたイベント会場に来られたお客様(通りすがり?)、いいかんじのおじいさんでしたが江州音頭を私のそばでやってくださいました。江州音頭とは、滋賀県を中心に近畿各地で盆踊りに用いられる音頭です。持っていたジェンベで合わせましたが、リズムの感触はかなりファンキーでした。ダンス音楽なので背中からの跳ねっかえりはしっかりしていました。その方のお話では、「このあたり(大和八木)一帯、田原本、郡山(すべて奈良の地名)あたりは昔はみんな江州音頭やったな」とのことで、これでみなさん踊っていたようです。

 

詳しくはないのですが、若いころに民謡にふれる機会がありました。20代のころ隠岐民謡のお師匠さんとお仕事をさせていただいたことがあり、その時に聴いた音とリズムが忘れられないです。今も時々口ずさむ静かな民謡「浄土ヶ浦小唄」というのがあり、その歌詞も印象的です。旋律も哀愁があって素敵です。

 

キツい裏ノリのファンクや裏が回り過ぎて表にかえるようなラテンに染まってきた者として、あらためて各地の民謡を聴かされると感動します。ものやお金のないなかでも充分に楽しめる、深くたわむリズムです。感触は先に書いた通りファンクに近いものがあります。明治維新を期に学校での音楽が西洋化されましたが、そのころは西洋音楽のシステマチックなところを取り入れたい一心だったのでしょう。しかし、それはまだまだ固有のリズムが息づいていた真っ只中でした。でもそうやっているうちに即興的な謡やそれを載せるためのリズムを体に入れる機会が少しずつ減ってきて今に至っているのでしょうか。いつから、世間でもてはやされる音楽が裏ノリでなくなったのかなあと思います。

 

 

封緘(フウカン)木簡

封緘木簡 Sealed wooden tablet made by Castle Magic Studio
封緘木簡 Sealed wooden tablet made by Castle Magic Studio

先日、ひょんなことから平城宮跡資料館に入り込み、実物を見てそのデザインに感銘を受けました。早速工房に帰って板紙と和紙で製作しました。

 

この「封」の文字が乱れず届けば秘密は守られています。

 

2枚の木簡の間に文書の和紙を挟み込んで上下に封がしてあります。下半分は削られています。「ここを持って届けてくれ。’封’の字には触れないでくれ。」というデザインです。素晴らしいではないですか。

 

作宝楼新聞社にはやくお届けしたい。

ちなみに、大切なことが書いてあるから封をしたのではなく、馬鹿げていて恥ずかしいので封がしてあります。

畑の作業

今日は、まずジャガイモの草取り。そして、ルッコラの種まき。最後にサツマイモの収穫作業。ツルを鎌で取り払いスコップで土を掘り返した。立派なおいもがたくさん出来ている。いくつか、スコップで傷つけてしまったものを持ち帰り、薄く切って素揚げしてあめを絡め、ゴマをふって食べた。幸せな秋だ。

 

畑からの帰りに、むかごを袋いっぱいに持っている方に出会った。これは、むかごご飯にしますとおっしゃっていた。

別の袋には烏瓜がこれもいっぱい入っていた。

 

コナラ

近所でコナラのどんぐりを拾う。まだ、青いどんぐり。家に持ち帰り、少し手を加えてストラップに仕立てた。まず、帽子を割らないようにそっと外して、帽子に小さな穴をあけ、そこに細い針金の輪を入れる。接着剤にてもとどおりに帽子をどんぐりに被せなおして固定。仕上げは、針金の輪にジュートひもを通して完成。9月24日(土)の大門玉手箱でご購入頂いたお客様にプレゼントできたらと思います。

 

つくるときに、青いどんぐりの帽子のなかに指を入れると、ねっとりと湿っていました。”アク”を感じました。同時に本当に他人のとったばかりの帽子に手を入れたような気持ちになりました。

 

青どんぐり 帽子のうちに 息の残れる

 

コナラのどんぐりストラップ

Bubbles

GRAFFITI of SUMMER (2016) Fuku Ikeda
GRAFFITI of SUMMER (2016) Fuku Ikeda

Structure of Light

Structure of Light (2016) Fuku Ikeda, Paper, W218xL308xH182cm
Structure of Light (2016) Fuku Ikeda, Paper, W218xL308xH182cm

アオバズク

午前3時、アオバズクが鳴く。

「ふぁ、ふぁ。ふぁ、ふぁ。ふぁ、ふぁ。ふぁ、ふぁ。」と鳴く。音程はすべてF。

夏の講習

2016夏のワークショップ。パンカフェ「ハルソラ」にてご予約があり、ひな形を製作。夏のカード2種を製作デザインするクラフトワーク。

Envelope Curves

Envelope Curves (2016) Fuku Ikeda, Graphic artwork
Envelope Curves (2016) Fuku Ikeda, Graphic artwork

A♭

ヒヨドリ(春~夏)※♩≒60
ヒヨドリ(春~夏)※♩≒60

ずっと気になっていた鳴き声でした。一体誰が鳴いているのかなあと。

と、いいますのも、音程をしっかり維持して鳴いていて、難しいことをするなあと前々から感心していたからです。

多少の変化はありますが、最初のA♭の音は完ぺきに維持して鳴き続けます。

聴いていると、「5度上のE♭を出したいんだけど、なかなか音程があがらないよ~!!やった!最後ちょっとだけ出た!!あ、でもまた最初から…」みたいに聴こえます。延々と発声練習を繰り返す、ほほえましい鳴きです。

 

今日この声の主の正体が分かりました。鳴いているのをこの目で見ましたよ。ヒヨドリでした。

秋や冬に聞く鳴き声とは全く違うものです。メスを呼ぶオスの声でしょうか。でも、気楽に鳴いている風でした。

 

気になったのでYouTubeで同じ鳴き方探して聞き比べたところ、どの個体もA♭から始めています。

A♭の音程が本能的に備わっているのか、喉のつくりがA♭から始めやすくなっているのか、分かりません。

でも秋や冬に他の音でかなり自由に鳴いていますから、

喉のつくりが音を決めているというのは当たらないかなあと思います。

私の予想ですが、A♭から始めるこの謡でないとメスはときめいてくれないのでしょう。

つまり、狙った音程で歌っているのだと思います。

祈りの音

橿原市観音寺町に伝わる中陰和讃
橿原市観音寺町に伝わる中陰和讃

私のふるさと、橿原市観音寺町に伝わる「ふし」のひとつに、「中陰和讃」というものがあります。故人を弔うお経として唱えられてきたものです。どこか遠い、澄んだ響きのあるふしです。ひちりきを連想させる響きです。Wikipediaによると、「和讃の原型である「讃歎」(「仏教讃歎」、「讃談」とも)は、古く奈良時代にさかのぼる」とあります(参考:Wikipedia 和讃)。

 

 

 

Pickle Plums

After finishing planting rice, we are starting to make pickled plums. We preserve plums in salt water with "aka-jiso", or red perilla. Perilla is said to prevent food from going bad and dispensable to make pickled plums. It has a strong aroma and gives plums beautiful red color. I found its liquid's red or pink color so beautiful that I couldn't drain it and put it on a piece of Japanese paper. I also put a little Indian ink on it. It's an early summer color in Japan. I wish it won't fade, but maybe it will.

しその香

梅を漬けるための赤じそを塩でもむ。紫色のしぼり汁に去年作った梅酢をくわえると美しいピンク色に変わる。あまりにきれいなので、墨汁を少し落とした半紙をそれで染めました。初夏の色です。

早苗饗:さなぶり

 

すべての田植えが終わり、これから本格的な夏が来る。

 

Thanksgiving for planting rice completed

 

It's been the busiest season for rice farmers for a week. Finally we finished planting rice seedlings in fields last week. We wish that all rice plants in our village will grow without any harm.

畑の作業

今日の作業、

春菊の草取り、バジルの草取り。

 

ホトトギスがひっきりなしに鳴いている。

「てっぺんかけたか!てっぺんかけたか!」。

ぴょこぴょこした音です。リズミカルで楽しい。

でも当の本人には真剣な恋の叫びでしょう。

 

  

GRAFFITI

 GRAFFITI   (2016) Fuku Ikeda  14.5x20.5cm
GRAFFITI (2016) Fuku Ikeda 14.5x20.5cm

未来の北極星

午前3時45分、南の空を望む。

 

西に土星が黄色くみえる。ちょうどアンタレス(さそり座)が地平線に沈んだところ。

 

南に顔を上げると、アルタイル(わし座)、ベガ(こと座)。

 

ベガは未来の北極星。

今はこぐま座α星ポラリス(Polaris)が北極星で、この星が地球の自転軸の延長線上にあります。

でも地球の自転軸は、独楽(こま)に似て、円を描くように振れています(地球の歳差運動 Axial precession)。

そのため、自転軸の延長上にある星、つまり北極星はどんどん違う星に代わっていきます。

 

約12,000年後、このベガ(こと座)が北極星となって星空の中心にきます。

 

未来の北極星ベガと現在の北極星の位置を比べると、地球の歳差運動の規模の大きさを体感できます。

 

私もはじめてその説明をきいて、ふたつの星の位置をみくらべて、自分が乗っている独楽が振れるのを想像しました。

Peace

Jazz ピアニスト、ホレスシルバーの名曲です。

彼の音を聴くと、人間に生まれてよかったなあと、心から感じます。

 

生きている時間なんて宇宙の物理や時間で言えば、一瞬です。実際、リアルに”一炊の夢”だと思います。80まで生きたとしても、出会える人の数は数えられるくらいで、その人とかわせる言葉にも限りがあります。あっという間です。動いていられるのは。 

 

必ず終わりのある夢だということに、いつも気づかされます。生きているのは奇跡で、ここにいるのも偶然ですね。彼の音を聴くといつも思います。

 

Peace:

4th track from Silver's "Blowin' The Blues Away" album. Originally released on Blue Note (84017). Horace Silver (piano); Junior Cook (tenor saxophone); Blue Mitchell (trumpet); Eugene Taylor (bass); Louis Hayes (drums)(You tube より)

Blue Mitchell のトランペットはいつも私を謙虚な気持ちにさせます。原点を示してくれるアーティストのひとりです。

 

"Untitled"

"Untitled" (2016) Fuku Ikeda  Paper, PVC 44.5x14cm
"Untitled" (2016) Fuku Ikeda Paper, PVC 44.5x14cm

 

青い透明なものをぼんやり見るのが好きです。吸い込まれるようです。

I like seeing things through clear and blue glass. It takes me back to ancient days in the ocean.

 

 

惑星

午後9時半、南の空を望む。

 

東にチーズのような満月。そのすぐ右に火星がオレンジ色に輝いています。今日は火星、地球、太陽が一直線に並ぶ火星の「衝」の日です。火星の位置を眺めながら、反対側にある太陽の位置を想像しました。火星はこのあと31日に地球に最接近です。南を向いて顔を上げると木星が輝いている。明るいなあ木星。地球、火星、木星と3つの星の位置と大きさを想像しました。

 

重力って不思議ですね。コップの水に片栗粉なんかを混ぜると、しばらくしたら下に沈殿しますね。それが、宇宙で(太陽系で)も起きて、ごた混ぜになったものが、重力で引き合って沈殿した状態が今の感じなのかな。空中にものが沈殿するって…想像するだけでも重力って面白いです。

Wavering

La spirale du Modulor II  (2016) Fuku Ikeda 54x37.5cm
La spirale du Modulor II (2016) Fuku Ikeda 54x37.5cm

トノサマガエル

今日はトノサマガエルばかりがいる田んぼに遭遇しました。

 

仲良くしていただいている奈良市田原地区のお茶農家の方がおり、

今日はお茶摘みをしてきました。

そのお宅周辺の田んぼがすごい田んぼで、会うカエル会うカエル、みんなトノサマでした。

アマガエルくらいの大きさでまだ小さいですが、トノサマガエル密度が想像以上でした。

 

私はカエルが好きなのです。特にアマガエルの鳴き声が。コロコロとかキャッキャッとか。

私のふるさとは、田植えが始まればすべての田んぼが1枚の水の鏡のようになり、

大量のアマガエルが夜どおし鳴きます。6月の初旬が田植えです。

 

Shadow on the Water

Shadow on the Water (2016) Fuku Ikeda  19.5x77.6cm
Shadow on the Water (2016) Fuku Ikeda 19.5x77.6cm

インスピレーションの源

Castle Magic Studioのインスピレーションの源、橿原市観音寺町。一面のレンゲ畑。土が呼吸しているのを毎日感じます。こどものころアイルランドの民話を読んで、妖精のお話が遠い国の話とは思えなかったです。実際に不思議な話をおじいちゃんに聞かされました。少し怖い、どこか滑稽な。木霊、魑魅(こだま、すだま)の世界。

 

上の写真ように、田んぼにレンゲを植えるのはレンゲの根っこがチッソを溜める性質があり、天然の肥料となるからです。化学肥料の使用をできるだけ抑えて、または全く使わずにお米をつくる知恵です。レンゲ畑のなかには、アルビノの白いレンゲが咲くことがあり、子どものころ白レンゲをみんなで探したものです。

 

土とともに生きられることは本当に幸せなことです。土が呼吸している限り、私たちはそこから今日の糧を頂けます。

 (April 29, 2016  photo by Fuku)

橿原市観音寺町から葛城山を望む。葛城山は能の演目「葛城」や「土蜘蛛」の舞台として有名。観音寺町一帯は縄文時代の遺跡が眠っています。弥生時代の水稲栽培初期のころから稲を育んできた土地です。今日、私も今年の稲の種を苗代(なわしろ)にしてきました。無事の発芽を空や風や土の神様にお祈りします。(April 29, 2016  photo by Fuku)

 

展覧会・最新刊絵本情報へ戻る

SPRING

SPRING (2016) Fuku Ikeda
SPRING (2016) Fuku Ikeda

It's a dull, gray memory that sounds like the harmony in "Portrait of Tracy" by Jaco Pastorius.

リズムと響き

6月4日(土)ミジンコブンコにて即興演奏ライブをすることになりました。絵本の抽象的な画面に声とパーカッションで音をつけます。静かな環境でしかできない、ライブです。楽器にふれると共鳴して鳴る、かすかな音にも耳を澄ましていただきたいので10人くらいまでのお客様とご一緒できたらと思っております。

 

すべて、アドリブでそのときの雰囲気にあわせて演奏します。今回3冊の造形絵本を出品しますが、それぞれリズムと響きをイメージしてデザインしています。響きについておおまかにご紹介しますと、

 

SILVERY WINTER(絵本に差し込む光と影を楽しむ絵本):

ドリアンスケール(ドレミファソラシドのレから始めてレで終わる音階)の響きを意識したデザイン。

EXHIBITION FEBRUARY 2016 (形を楽しむ絵本):

パーカッションで形を伝える作品と、ブルーノート(BLUES )のイメージによるデザイン作品を含む 。

EXHIBITION OCTOBER 2015 (パターンを楽しむ絵本):

全体がブルーノートを意識したデザイン。

 

というように製作しています。

 

スケール(音階)をもとにアドリブするモードジャズのアイデアを基本に音をつむぎます。最もシンプルな即興演奏のやりかたです。言葉を使うことなく抽象的な絵本をどこまで”朗読”できるのか、小さな実験です。

 

今回の音楽は、聴いて下さるみなさんが音の背景にある画をもとに耳を澄ましていただいて、はじめて成立します。そのための「場」の設定がとても大切でした。今回ミジンコブンコさんが、その「場」をご理解いただき快く提供してくださったことに、心より感謝申し上げます。

 

 

 「言葉のない朗読会」へ戻る

 

今までの展覧会とイベントに戻る

天文台

Observatory  (2016)Paper craftwork,  Designed by Fuku Ikeda
Observatory (2016)Paper craftwork, Designed by Fuku Ikeda

六角形の白い建物。星を眺めるときは、こんな建物のなかにいる心地。

A hexagonal white building. When seeing stars in the night sky, I feel as if I was inside a building like this.