otonikki

昨日、私は、大阪へ出て、梅田駅周辺を歩き回りました。田舎で育って、今もさほどキラキラもしてないところに住んでいるのですが、そして、ここ5,6年大阪の中心部のような都会を歩いていなかった者が、困惑した感覚…そんなもの、みなさんご興味ないだろうけど…。正直な、身体からの感想を書きますが、特異な印象でした。都会には、「あきらめ」というものがない気がしました。電車もバスも、車もいっぱい走ってる。人でいっぱいで、みんな豊かないろんな知識や情報を持っていて、すごく刺激もあって、いいこともあるけど…。効率のよさ、利便性、人を惹きつけようとすることがかたちになったら、こういう感じになるのかな…。空が狭くなって、土があまりなくて、それでも、限られた土にちゃんと緑が生きていて、綿毛も飛んでる。ギャラリーに行くと祈るような音が流れてる。

 

都会に生きている人もいます。決して、私のような田舎の人間が電車で出てきて歩き回っているだけじゃない。海外から来られる観光客の方々だけじゃない。そこに、住んで生きている人がいます。そういう人は、きっと、もう癒しとかを単に求める気持ちを超えて、言葉では言えないけど、何かしらを感じておられるのではとちらっと思いました。それも無意識のうちに、感じておらるのではと。田舎にも”よくわからない”開発があったりする、けれど、都会は”よくわかる”開発ではあっても、やはり”開発”に晒され続けているんだなと感じました。すべてがそうだとは言わないですが、今のお金の流れ方がかたちになったと言える場所もたぶん私は歩きながら見ていただろうな。

 

都会のなかで鳴らしたい音と、田舎の空に鳴らしたい音は、正直、質的に違うものです。もう、それがはっきり昨日、分かりました。田舎で出す音は、感謝の音でしかない。土や空や緑に。私はそういうものを見ていると本当に安らぎます。そして、日々の糧を頂く場所でもあります。土があれば生きていける。どうにでも。けれど、都会は、ちょっと様子が違うな。即興というのは、その場所のぽかんと空いたところをみつけて音で踊ったり歌ったりするものなので、そうなると、都会で音を出す時は、もう、「祈り」は欠かせないと感じました。ぽかんと空いたところが、人の心の中でみつかる。都会を歩く私の心の中がぽかんと空いていた。そして、私と同じような方に都会でよく会う。さっきも書きましたが特異なものを感じます。まあでもあくまでも、これは、個人の感覚です。この感じ、うまく言葉で説明できないなあ。誰が悪いとかそういうことではないのです。こうするべきだとか、そんなことを言いたいのでも決してないです。ただ、思想の中にも「デザイン」みたいなのがある気がする。場所を観察している。何が、その風景をつくっているのか、何がかたちとなって表れているのか。それについて、身体で感じるものが昨日ありました。都会で音を出す時は…、もっと正直にいうと、都会で私が呼吸しようとするなら、「祈り」がなくてはいられない。土や空への感謝まで行けない。自分をちゃんと歩かせるだけで精一杯で、それで満タン。グレゴリオ聖歌ではないけど、5度離れた音を同時に出して、それを平行に動かしたりして延々と歌っていたいです。都会のまんなかは。