苦手な記号

遺伝子は今でももてはやされているのでしょうか。私が子どものころもてはやされていたな。分かりやすい記号だから。まるで、いきものを記号であらわしたかのように思われて。

 

私は、ちょっと記号が苦手です。この遺伝子にまつわる”可能”の幻想は、特に苦手です。

 

それは、一番大切なものが、完全に抜け落ちているように思うから。時間の上にのって、初めて遺伝子が動くということを、誰も言わない。時間の上でみんな踊っている。記号をあっちゃこっちゃにランダムに飛ばしまくってるかもしれない時間の上に、私たちはのっている。遺伝子という名の記号だけを見て、まるで時間に寄らずいつでも、いきもののかたちや機能を管理できるなんて、ある程度はできても、ある程度はもうできないと思うのです。でも、確かにある程度はできるのでしょうね。

 

実際に研究されている方は生物を愛している方が多いと聞くのです。生き物への愛情から研究されている方がほとんどですと。生き物への敬意なしにはできない研究ですよと伺ったことがあるのです。けれど、それにお金がまつわると、ぎこちないものになっていくような気がします。私は、科学をあんまりきれいに整ったものだと考えない方がいいかもしれないと思い始めています。”例外と予想外の海”だと思っておいた方がいいような。正直、その例外と予想外の方が面白い。科学技術(特に生物に関わる)によってモノをコントロールしたかに見えて、例外と予想外に引っ掻き回されて終わるのが現実というか。それは、時間のなせる業のような気がします。その瞬間が決して再現されないがゆえの。記号も時間によって散らされ続けているかもしれない。私たちいきものは特にそんな時間に依存しているモノのように思うのです。だから、いつも新しい一瞬一瞬を意識して、観察しつづけるしかないように思います。そうやって観察を続けるなら、その結論はいつも「いきものへのリスペクト」に満ちたものになると思います。そういう研究をされている方が、きっとたくさんおられるんだろうなと予測しています。もてはやされていないだけで。観察の結果、どんなに、いきものが素晴らしいか、それをもっと発信していただけたらな。科学が、自然界への深い理解を促す情報を出していくものだととらえて、研究、発信してくださる先生方がいたらなあ。たくさん、おられるだろうけど。静かに研究されているんだろうな。いわゆる、在野かな。南方熊楠氏はちょっと変わった人だったようだけど。まあ、これは家族を養うことを度外視した素人の願いですが、科学こそ、どう利用するかを考えなくてよい世界であったらななんて思うのでした。観察したそのままで価値があるような、そんな気がするのです。