精霊のすみか

最近、「精霊のすみか」をさがしています。どういうところでその存在を感じるかなとアンテナをたてています。今日行ってきた田原の山と自然の中には、いっぱいいました。相当堂々と。大量の鳥の声がシンクロして響いたとき、まるで大きな一羽の鳥の声のように聴こえました。そして、特に、あの竹藪のなかで感じたものは強かったです。何かが見えるとかではないですが、私自身がとても静かになって、人知を超えた畏れるべきものの存在を感じるというか。

 

けれど、どうかな、自然の中以外でも私は見つけたことがあります。例えば、古いガラス窓。蔵の二階の古道具の中、あの糸車とか。街中でもあります。古い民家の窓。放置された植物に食べられそうになっている窓。錆びた歩道橋の下の暗い処。こういう場合は、小さなかわいらしい愛すべきものの存在であったりします。妖精のような、これも「精霊」だなと思います。ちょっとひとことでは説明できないですね。

 

子どものころ、読んだお話で、そういうものの存在を感じたお話はたくさんありました。小川未明とか。安房直子さんの作品も。届かない思いが描かれているような気がしました。届けたかった人に届けられなかった思い、伝えられなかったことを心のどこかにひっかけている登場人物がいました。そのひとたちは、精霊のようなものに助けられて、思いを時空を超えて精霊に伝達してもらうような、そんなお話。淡い感覚ですが。

 

ちょっと大きくなって小泉八雲にはまって、この人のものとなると、かなり、はっきりと精霊の存在が記録されています。小泉八雲さんは、その観察眼からしてすごい人で、これは別の話でまた書きたいと思います。いや、やっぱり、ここに書きます。彼がアメリカで新聞記者をやってたころの著作を読んだことがあって、その時代のアフロアメリカンたちの音楽について書いているのを読んだことがあります。いわゆる、ブルースについて。彼は、誰かほかの人の価値観を借りてものを見るんじゃなくて、その時の自分自身が素晴らしいと感動したことをそのまま素直に言葉にできる、偏見のない目を持った人です。その記述を読むと、そのころのアフロアメリカンの人々の決して楽ではない生活のなかで、演奏されている音楽の素晴らしいグルーブが聴こえてくるようでした。こういう目をもった人が、明治時代の日本にやってきたんだなと思って、今もその呼吸が残っているなと思うのです。もちろん怪談もいいですが、日本に来る以前の著作に考えさせられるものがありました。全然関係ない話になりましたが、でも、そういう彼が、「精霊」や説明できない不思議なものに強い興味を持っていたことは、決して無関係ではないと思うのです。

 

大自然から、小さな身の回りのものにまで宿る精霊や、神様は、こちらの、私の心次第で感じられるものだと思います。私は時々増長して、調子に乗って、まるで自分というものが「ある」かのように感じて、謙虚さ失うことがあります。そうなると、もう何も感じられなくなる。すべてがどうでもいいものに感じてしまいます。けれど、外へ出て、草むらへ行って、仰向けに寝て空を見て、鳥の声を聴いて、それをマネて歌っていると、また、そういう感覚を思い出します。気を付けないと忘れてしまうようなことなのです。自戒の念も込めてですが、私はこちら側の人間でいたいと、最近強く思っています。つまり、説明できないものや、届きそこねたねじれた思いを届けてくれる淡いものとともにいられたらと、こちらの側にできるだけ長くいられたらと最近、折に触れて思うのです。